実母を看取りました3 2017年8月記事
2017年8月25日の記事です
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8月6日に痙攣から昏睡となったあと、意識が戻り、父とともにサ高住での生活を始めた母。
その前の週に訪問看護師の導入が始まった時にはまだ自分で動けることもあり、週1日の訪問にしてもらっていましたが、8月7日よりほぼ毎日訪問してくださいました。看護師さんのケアに対する拒否も多く、看護師さんとしてはやりにくさがあったようです。私が本人が拒否することは無理にやらなくていい、と言ったので看護師さんの出来る範囲で清潔の保持や便秘対策などをしてくれたようでした。毎日訪問看護師さんが来てくれたことは本人や家族にとってもありがたいことでしたが、施設の皆さんにとってもありがたいことだったようです。訪問看護師が毎日来てくれるということがどんなに心強いことでしょうか。わからないことを気軽に聞けていろいろ教えてもらえるということで施設の皆さんが本当に感謝しておられました。
脳転移の影響がありつつ、母の生活は穏やかでした。痛みを訴えることはほとんどなく、過ごしていました。脳転移の影響で話が突然噛み合わなくなったり、今までちゃんと誰と話しているかわかっていたはずなのに、話の途中で「アンタ、誰?」と認識ができなくなったりなどしていましたが、父が来て母は喜んで日々を過ごしていました。見舞いの人もいろいろ来てくれました。東京にいる孫たちと会え、お隣のお姉さんと会え、自分のきょうだいたちと会え、それぞれお別れもできたのはよかったことでした。姉が死後お墓をどうしたいか聞き出してくれたのもこの時期でした。昏睡の後、ほんの短い間とはいえ、実にいい時間がありました。
父はマイペースで食事の時間には酒の瓶を持って食堂に出かけ、施設のおいしい料理を食べて一杯飲んでご機嫌でした。施設の方にとってはこんな横で寝ているだけの父でも父が病人のそばにいるということが安心だったようで、父が透析で外出している時に母に変化があったらどうしようかと思っていたようです。
母はもう食事が入らないので欠食にしていました。ゼリーやほんの少しパンを食べたりなどの程度ですので、もう終末期に入りました。ゼリーもほんの一口。胸部のリンパ節転移があることからおそらく反回神経にも浸潤があるのでしょう、むせもひどくて飲み食いが難しくなっていました。8月6日以降、いい時間がもらえているけれど、残り時間はあと数日という単位になって来ているのがわかりました。
これを書くと本当に非難されそうですが、正直に書きますと、残りの時間が日単位になっているのに8月11日から13日まで2泊3日で私は家族旅行に行っておりました。開業して2年ぶりの旅行なのでちょっといい旅館を予約しており、お盆時期なので旅行費用が高く、昏睡になった6日の時点で旅行直前だったためキャンセル料が本当に高かったのです。私にとってその高額なキャンセル料を無駄に支払うことができず、キャンセルすることができなかったのでした。夫は「キャンセルする?」と言ってくれたのですが、迷っているうちにどんどん直前になり、もう、キャンセルせずに行くか、となったのでした。
まずは旅行予定の11日までもつだろうか?と思っていたら11日を無事に迎えることができたのでそのまま旅行に行って来ました。旅行途中で呼ばれるだろうかと思っておりました。もし呼ばれたら日中ならもちろんその場ですぐに引き返そうと思っていましたが、夜中に呼ばれた場合は、夜に車を走らせて4ー5時間というのも危険なことですし、もし呼ばれたのが夜中なら翌朝早くに出ることにしようということで夜もお酒を飲みました。結局呼ばれることなく旅行は終わりました。
旅行から帰って来てまずは両親の元に行きました。「お土産はないよ、お母さんもう食べられないからさ。お父さんにお菓子買ってくるわけにいかないし(父は糖尿病からの透析患者)お父さんが梅干しとか食べることないもんね」と母にいうと「いらない、いらない」といつものように言いました。母にいろいろ買ってきてもあまり喜ばないのは昔からでした。母が亡くなった後で自宅の冷蔵庫を整理していた時も私が買ってきた味噌漬けなど、母にあげたものがそのまま賞味期限を大幅に超えて包装紙もそのままに放り込んであったものです。「この人ってほんとこういう人だよな」と思ったものです。結局私が母とした会話はこれが最後でした。この時母はうちの子供の付き添いでトイレに行っていました。朝お腹が空いたと言ってゼリーを一つ食べ切った、と介護の人が言って「食事を出さなくていいでしょうか」と相談されました。少し考えて「でも、むせがひどくて食べられないから、ゼリーやアイスクリームでいいと思うのです」とお答えしました。
この13日の夜。午後8時ごろに父から電話がありました。
「もう、こいつ、意識ないぞ。目も開いてるけど、何も見えてないぞ。」ということでした。
急ぎ夫と子供とともに施設に行くと、母は目を開けたまま意識がなくなっていました。痛み刺激には反応して忌避することは忌避していました。目は右側を向いたまま。共同偏視(きょうどうへんし)という状態でした。国家試験のころの古い知識を思い出して「どうだったっけ。えーと、健側を見るんだっけ、対側を見るんだっけ。大脳と小脳で違うんだっけ。」などを考えていました。母に異変が起こったということより自分の医学知識の確認ばかりしてしまっていました。「どこに出血したかわからないけど、脳内で出血が起こったんだと思う。このままもう本当に終わりになるかもしれない。」と家族に伝えました。父が一人で母のそばで過ごすのを嫌がるので私が泊まることにし、夫と子供は家に帰ってもらいました。姉夫婦が後から来てくれ、一緒に泊まってくれました。
翌朝、8月14日、母は発語はないものの口腔清掃をしようとすると嫌がって顔をしかめ、痛みを問うと小さく反応がありました。私も姉も仕事に行くのと、父も透析に行くのとで家族は無人になりましたが施設の方がいてくださるのと看護師さんが来てくださるので安心して出かけることができました。
東京の妹たちは「行きたいのだけど、どうしても大切な仕事が16日にあるので迷っている」「16日に休んで京都に行くべきか、16日は仕事をして18日19日に京都に行くべきか悩んでいる」とそれぞれに言うので「自分の生活をきちんと送りつつ急な事態に備えてほしい。夜の移動は必要なく、朝を待って行動すればいい。みんなしっかりとそれぞれにお別れはできているのだから何も慌てなくていいのです。」と伝えました。
勤務に出ている間に訪問看護師さんからメールが来ました。「共同偏視はなくなった。コミュニケーションはとれないが拒否はある。自力で座れている。飲み物を勧めると飲もうとするが嚥下は難しい。」
自力で座れているのか!と母の生命力にまたまた驚かされました。
身の置き所がなく、横になりたがらないのに困らされた、という報告をもらいました。医療用麻薬の座薬を20mgで用意しており、1/3 で約6ー7mgの量で使っていましたがその量ではまだ辛いようでした。貼り薬の医療用麻薬の量を増やしたりもしましたが辛さが残っているようでした。
8月16日の午前4時に電話で訪問看護師さんから連絡がありました。夜中に39度を超える発熱があり、訪問看護師さんが対応してくださったということでした。解熱用の座薬を使っても熱が下がらず、身の置き所がなくて辛そうであるということでした。
この日の日中、血圧が低いということでしたが、血圧が下がっても構わないので医療用麻薬の座薬と解熱用の座薬を同時に使ってしんどさをとりましょうと指示を出しました。血圧が下がる、ということはそのまま心停止を引き起こす可能性がある、という意味です。
この心停止を引き起こす可能性がある指示を患者が自分の家族だから出すのか、家族ではない一般の患者には出すのをためらうか、という問題があります。
実は私はこのような指示を一般の患者さんにも出します。苦痛を取ることにまつわるリスクとして血圧の低下と心停止の危険性は常に考えなくてはならないことですが、心停止のリスクを十分知った上で苦痛を取る選択肢はあってしかるべきと考えています。
家族と、もしコミュニケーションがとれるなら本人に説明します。血圧が下がり、その結果そのまま心停止に至る可能性があるが、その場合はその血圧を出しているのがしんどさからのカテコラミン(血圧を上げるホルモン)の作用であるならば、このしんどさを残して血圧を維持することをどう考えるか、ということを伝えて選んでいただきます。しんどさをとってほしいというご家族もいらっしゃれば血圧が下がるならやめてほしいというご家族もいます。私の場合はまず訪問看護師さんに指示を出した後で、姉妹たちに事後の了解をとりました。
今回の場合は特に血圧のさらなる低下をみることなく、この二つの座薬を入れてから身の置き所のなさが収まったようで大人しく臥床するようになりました。早かった脈も収まり楽になったようでした。
落ち着いてしんどさが治まったように見えますが、病状が良くなったわけではありません。東京の妹二人には「そろそろ動けるように準備をしておくように」と伝えました。
そして8月17日、訪問看護師さんから「手足が冷たく、冷や汗があり。腹部多量に尿の貯留があり、圧迫で1リットルほど出ました。呼吸が浅くもうあまり時間がないと思います。全体的には楽そうなので何も薬は使わず様子を見ます。」と連絡がありました。手足が冷たいのは脱水により手足に回る血流が保てていないことからであろうと思われました。私は「尿を1リットル出すと迷走神経反射で血圧が下がるんじゃないのかな。それはそれでいいけれど。」と思っていました。この連絡が11時42分。そして12時15分に施設の方から「呼吸が停止しました。」と連絡がありました。やはり、尿がそこまで一気に出ると血圧が下がるよね、と思いましたが、これにより母の肉体が苦しみから解放され千の風になって旅立ったことに安堵しました。
午後の仕事をし、早めに切り上げて15時半ごろに施設に行き、死亡診断をしました。
死亡診断をした後、介護の人とお話をしました。最後の瞬間についてのお話を聞きました。
「お父さんのお昼ご飯のお声がけをしにお部屋に行ったんです。お父さんはものすごくよく眠ってらしたんですが、お母さんを見ると、もう下顎呼吸(死ぬ直前に出る生理的な呼吸。顎が上下するように動いてあえいでいるように見える。)が出ていたんです。私、お父さんを起こして『お父さん、お母さんがもう行っちゃう。早く、今だったら声が聞こえているから、お別れして!』と言ったんですよ。そしたらね、お父さんが『ヨシコー!愛してんどー!!!』って言ってね、そしたらお母さんがそれに答えるみたいに『がー!』って言ったんですよ。それから息が止まったんです。」
私はこの話を聞いて、わりと感動したんですよ。以前は「死ぬな」と呼びかけていた父が旅立ちを止めるのではなく最高のはなむけの言葉で母を見送ったことに父の成長を感じました。母は脳出血のせいで言語障害があり、言葉にならなかった中なのに、精一杯答えることができたということを聞き、最後まですごい母の生命力に再三驚かされました。
このあと、母の希望した通り堺の自宅に戻りました。堺に戻ってよかったね、落ち着いたね、と思いました。ごくごく簡素な通夜と葬儀を自宅で行いました。在宅看取りをすることで母の死を家族みんなで手作りした思いがあり、本当に在宅看取りって素晴らしいなと思いました。そして自宅で葬儀することで母の死をみんなの温もりの中で見送ったなと大変満足しました。
このように在宅医療医として実際に家族を見送りました。自分自身の振り返りをしますと、実のところあまり特別な感慨深さはありませんでした。今回の一番の発見は、「私は日頃患者さんを大切に思っている方だと思っていたが、自分の家族だからと更に一生懸命になるわけではなく普段通りの内容で診療したな。普段から診ている患者さんのことを、家族と同じ熱さで大切に思っているなと思った。」ということでした。
もちろん家族ですので特別なことはあります。毎日顔を見に行くことは家族ならではのことです。でも、家族以外の患者さんであっても訪問看護師の連絡があれば求めに応じて座薬や麻薬の処方をすぐにします。去年症状コントロールが難しかった患者さんには1日に二回の往診もしばしばしていました。患者さんのお宅で、患者さんが愛おしくて家族の方と一緒に涙ぐんで堪えることもしばしばです。
そのように考えると今回家族に対しても同じ熱さで、同じ冷静さで向き合っていたと思いました。そもそも私という人間はいつも全力なんだわな、というのが今回の発見でした。
あと、在宅医療と在宅看取りはいいものだなと思いました。それがいいと思うからしているわけですが、本当にいいなと思いました。病院での死亡の場合より、無機質な印象がなく、生活の中の、有機的な人間の生の中の出来事であることを実感しました。自分が主治医であることもあるのでこれは万人に当てはまらないかもしれませんが、母の死をみんなで手作りしたような気持ちです。葬儀も自宅葬だったので手作り感が強かったし、親しい方が見送ってくださったのが温かかったです。
考え方が極端で、現代医療への理由なき不信と代替医療への盲信のある変わり者の母が、死に向かって飛び込むように突っ走って行きました。熱意ある乳腺外科のあの主治医の先生による化学療法をしっかり受けていたならばまた違った結果になったかもしれないのではありますが、母の母らしい生き方に敬意を表します。
医療者の私は苦痛を取るためにできる処方をしました。堺の、京都の二人のケアマネジャーさんらは介護と看護の連携がうまく行くように各方面手配をしてくださいました。訪問看護師さんは、わがまま放題拒否を繰り返した母に対して可能な範囲で対応してくださり、身体の状態の快適さを維持してくださいました。手厚い介護の付いている施設で、介護力の極端に低い私たち家族は介護のスタッフ皆さんに支えていただきました。みなさんの協力でなんとかできたことでした。医療だけでできることではない、医療、看護、介護の連携、いえ、協働、これこそが本当に大切なことだと再確認しました。
在宅医療医の家族の看取りが在宅での終末期についての情報を求めている方へのご参考になればと思います。