僕note第一話

このお話は誰も興味を持たない、誰も求めてない…

お袋も、最初の嫁も、次の嫁も、詳しくは知らない
僕の人生のお話

僕しか知らない僕note

僕の人生は3歳半?の頃、親父とお袋がつかみ合ったり、殴ったりしてる喧嘩を泣きながら2人の間に割って止めてるシーンから始まっている。
お袋曰く、このシーンに間違いはないらしい。
大阪は堺市生まれの僕は
次のシーンで婆さんのいる福岡へ、お袋と共に引越している。
途中の岡山の事やらは一切記憶に残っていない。

次の記憶は、24時間居たんじゃないかと思えるほどお世話になった《先生ママ》がいた託児所。
保育園がある日は夕方から深夜まで、無い日は朝から深夜まで居たので、お袋が母だと言う認識も曖昧でした。が、朝起きて見る姿はお袋だけだったので区別はついていました。

小学校に上がる直前に婆さんの近くの町へ引越し

2階建て6世帯の小さなアパートですが
その地区は福岡で有名なお金持ち達が住む町
時代のせいか、地区のせいか、
母子家庭はほぼありませんでした。

小学校前半はよく特別扱いを頂きましたが
僕は良く悔し涙を流してました。
最高の心遣いと扱いをして頂いてたのでしょうが
大人な対応は僕には全てその場しのぎでしかありませんでした。
それより先生ママや保育園の担任の先生、婆さんの心遣いや対応が嬉しくて好きでした。

小学校前半の頃はお袋もダブルワークを辞めてた?のかな、夜は一緒にご飯を食べてたはずです。が
後半からは再開。
寝てる間に帰ってきてて、声で目覚めても起きたらもぉ居ない日々。
あるのはテーブルの上に置かれた500円

僕の住むアパートには同じ敷地に住む大家さん一家があり、お婆ちゃん、おじちゃんおばちゃん、同級生の次男、一つ上の姉、三つ上の兄が住んでいました。
この家族は僕を家族の一員の様に接して、僕の面倒を見てくれた僕の知る最初の家族。

沢山の愛情を平等に与えてくれてたのに
僕は中学を前に道を踏み外していきます。
夜の孤独からの寂しさや無いものへの不満などから、その家族の目の届かない場所へと移り住み出しました。

中2から住み込みで新聞屋へ

すっかり酒もタバコも覚えてしまい、目の届かない場所として居心地が良かった場所。
それが普通に出来る人達がいる、バイクも乗れる、仕事を覚えれば褒められる、お金も貰える、飯も食える。天国でした。
毎日が楽しかったし、自由だった。
大人達と一緒に社会人を気取ってた。
から、学校も行かなくなった。

中3になり、引退間近のじいちゃん先生が担任に

その先生が僕を探し回っている。
毎朝、僕の家に迎えに来てるとの情報が。
程なく僕の隠れ家は目の前に住む同級生によってバレてしまう。
じいちゃん先生は1限目の自分の授業が終わると
2限目に役割のない時の毎日
車で僕を迎えに隠れ家へやって来るようになる。

先にも話した通り、この地区はお金持ちが多く住む町。風紀や環境は僕の世代は格別に良かった。
が、僕はだいぶ上の先輩から頂いた
ノーステッチの長ラン
太陽の光を浴びると紫がかる生地のやつ。と
ヒロシと言う名のボンタン
が、担任の車で昼前に殿様出勤。
またもや特別扱いをいっぱい頂きましたが
以前とは違い、泣く事もなく開き直って唯我独尊を貫いてました。が

卒業を前に、じいちゃん先生から

『お前を何とかして卒業させたい!みんなと一緒に高校にも行かせたい!』
『お前は字も良い字が書けるし、やれば点数を取れる事も知っている』
『だから俺の数学だけでも良いから、勉強してテストで合格点を取ってくれ!』
『そしたら必ず高校に進学させてみせるから!』

と説得され、進学する気は無かったのですが
お礼とお詫びを兼ねてマンツーマン補習を受ける事にしました。

結果は全てその通りとなり、他の先生達からも
『諦めろ!今更無駄!手遅れ!汚点!』
と言われてたのに一切愚痴や文句を言われずに卒業と進学を許して頂く事が出来ました。

が、

高校生になったとたんに元通り!
1年で中退し、17歳で社会人入りを果たした僕は
ありとあらゆる苦労や挫折、病や生死を
馬鹿みたいに何度も味わう事となります。

気づきを理解し出すのは10年後…

ありがとうございます😊これからも誰かの何かに役立てるような、そんな記事を書いていきます。宜しくお願いします。