人、中年に到る

この世のなかにはプロの若者もいなければ、プロの老人もいない。誰もが到達したばかりのその場所において初心者であり、いうなればアマチュアなのではないか。(p19)

これからは心の半分を過去に向けながら、失われたもの、失ったものを思い出しながら生きていくことになるのだ。足の速さを競う時期は過ぎた。これからは少しずつ生き方に穏やかさを与え、しだいに無為の方へと身を向けさせるべきなのだ。(p31)

書物とは情報の束でもなければ、文字の収蔵庫でもない。それは読むという意志に応えるために物質的に結晶した、書くという意志にほかならない。(p64)

未知なものに対する人間の好奇心は、これは生得的なもののようにわたしには思われる。(p66)

ひとたび知識を得てしまったとき、もう二度と人はそれ以前の世界に戻ることができない。そして知識はしばしばわれわれに、予想もしていなかった憂いごとをもたらす。(p68)

自分にとって旅の目的と効用を三つに定め、その一つひとつについて簡潔に記しておこうと思う。三つとは端的にいって、再生、達観、内省である。(p78)

情報を手にした者はもうそれだけで安心してしまい、その内容を探索しようとしない。その代わりに情報処理に血道をあげる。分析には熟練した思考が必要だが、情報処理にはそれが要求されないからだ。しかも情報は、それを入手できるという潜在的可能性を確認しておけばすむ。(p117)

稚拙なシニシズム(p117)

現在の若者たちの世代はその世代と比べてはるかに難しい場所に追い詰められていると、わたしは考えている。若くしてシニシズムという病いに取り憑かれてしまったとき、人は生涯になしえたかもしれない数多くのものごとを、知らないまま無気力に放棄してしまうからである。(p118)

国家の輪郭を形作るものはいかなる場合にも外部からの侵略者であり、端的にいえば他者である。国家について確実にいえることは、ただ二つしかない。すなわち、いかなる国家も暴力に他ならず、いかなる国家もやがて滅びるという事実である。(p149-150)

老いと衰退を肯定的に受け入れるということ。もはやかつてのようにすべてが進まなくなったことを嘆くのではなく、それをあたかも自然の摂理であるかのように認め、過去に獲得したものをいさぎよく放棄すること。諦念を未知のモラルとして受け入れること。(p206)

積極的に老いを受け入れ、待機と恍惚のなかでそれを乗り越えてしまい、平然と作業を続けているのである。もとより身体が衰えるのは自然なことである。(p208)

自分がその年齢に到達できたときに、現在はまた異なったものの見方をしているだろうと空想することが愉しくてならない。(p209)

わたしたちの誰もが自分の死という事件をひとたび体験してしまえば、その後は死について思考したり、語ったりすることができない。そのため人はどこまでも他人の死を契機としてしか、死について思考しえないというそもそもの前提を、ここで思い出してみるべきだろう。

人生に起きるさまざまな出来事のなかで死が特異なのは、それが例外なく万人に降りかかるということだ。だが、そればかりではない。いかなる死も人智を超えた力のもとに到来し、因果律を容易く踏み越えて実現されてゆく。人は死を回避し、死を恐怖しながらも、次々と死に赴いてゆく。同じ状況にあってなぜある人物が死に赴き、別の人物がそれから免れえたのかを論理的に説明してくれるものはない。というよりあらゆる死は、それが病死であれ、交通事故であれ、また戦死であれ、遺された者たちに怒りとも悲しみとも分別のつかない納得のいかなさを突きつける。人は肉親や友人知人の死を前に、とうてい受け入れがたいものを無理やりに受け入れさせられる。これは暴力的な体験である。この死の意味とは何か。いや、そもそも死には意味があるのか。だが誰にしても、眼前に生じた死が無意味なものだと宣告されれば、憤激するだろう。とはいうものの、死は容易にその意味を探り当てることのできない、意味を超越してものとして生起する。(p217)

老いと衰退 死について

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