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私と 中国

私は、日本人の父と中国人の母の間で産まれた。6歳までは家族と暮らしていたが、そこから私は単身中国に旅立ち、中国人のおばあちゃんと二人で暮らすことになった。

母は私にこう言った。
「中国語を勉強しに、
小学校を卒業してきなさい」


幼い私には何も理解できず、
「両親に捨てられた」 と思った。

中国での生活は今でもあまり思い出せない。
いや、思い出すのを脳が拒否している。

最初は中国語が話せなかった。
おばあちゃんは日本語ができないため、誰とも意思疎通をとることが出来なかった。

でも子供の能力は著しく、半年経つ頃には普通に会話できていたような覚えがある。

通っていた小学校は、地域の中でも進学校だった。時間割を見れば日本とほとんど変わらないのだが、実際行われた授業はほとんど国数英のみだった。まず学校に着くと、「今日の体育は国語、理科は数学になりました。」と告げられる。そしてひたすら勉強し、毎日大量の宿題が出された。帰宅し、ノンストップでその宿題をやり終えると、大体就寝時間間近だった。日本と比べてみると、小学校5年間で中学2年レベルまでの教育がなされていた。

一緒に暮らしているおばあちゃんは厳しく、私の小学校での娯楽は一週間で2時間のゲーム、そして毎日30分のテレビのみだった。大好きなポテトチップスも1日五枚に限られた。それじゃあしけって不味くなるではないか。そしてある日の深夜、隠れて布団の中でゲームしていたら当たり前のように見つかってしまい、大激怒。布団叩きの手で持つ方で顔を叩かれ、ミミズ腫れだらけになった。その日からゲームは鍵がかけられた引き出しに監禁された。私の今のゲーム好きは、きっと幼少期に満足して遊べなかった反動のように思う。

とにかく勉強しかしなかった小学校、いや、勉強しかできなかった。勉強することでしか承認欲求を満たすことができなかった。楽しいこともきっと他にもあったと思うが、これが私の記憶だ。辛いことしかなかったのだ。でもその経験があってからこそ中国語も話せるようになり、大学までの成績は優秀だったし、今でも真面目さが取り柄だ。


苦しい小学校の5年間を終え、やっと私は日本に帰ってくることができた。待ちに待っていた帰国の日、やっとお母さんの元に帰ってくることができる———


そう思っていた。

 

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