私と 小学校
中国の小学校は5年制だ。
そして学年の始まりは夏、卒業してから日本に来ると6年の二学期になる。
私は日本での生活に馴染むために、5年生の時から日本語の家庭教師を雇うようになった。幼少期の記憶もあり、すんなりと日常会話レベルはできるようになった。
小学校を卒業し、日本に帰ってきた。
中国のクラスメイトから離れるのは寂しいが、そんなことより早く帰りたかった。
母親のもとに帰りたかった。その一心だった。
でも、違った。
「日本語をしっかりできるようになりなさい」
と、父親のおじいちゃんおばあちゃんの家に預けられた。
日本人なので、全く中国語は話せない。
確かに日本語を勉強するには最適な環境だ。
私にとっては絶望だった。
「やっぱ。母親に捨てられたんだ」
わたしは再び思ってしまった。
それでも日本に戻れたのは幸せだった。
そしておじいちゃんおばあちゃんも優しくて
大好きだった。
しかし、私はよくわかってなかった。
「六年生の二学期、修学旅行の直前にやってくる転校生」がどう見られるかってことを。
今なら分かるが、答えは
「受け入れられない」。
地元でずっと一緒に育ってきたクラスメイトたち、修学旅行の班分けも決まっているであろう中、日本語がたどたどしい人が馴染めるわけもなかった。どの班に入れるかでたらい回しにされた。
文化的にも、大きな違いがあった。
皆さんの印象通り、中国では物事をみなはっきり言い、馴れ合いも少ない。yesかnoか、白か黒か、やりたいかやりたくないか、とにかく全て明瞭としていた。最後の唐揚げは我先にと箸で取りに行くタイプだ。ただとにかく情に熱く、仲良くなった友人にはたっぷり愛情表現をし、自己犠牲も全く厭わない。
そんな生活を"普通"だと思い、日本でも同じように過ごしていたらそりゃあ顰蹙を買うだろう。
「トイレ一緒に行こう」
「今行きたくない」
「この問題解ける人手を挙げて」
「はい私数学得意です」
「あの子ホント男好きよね、キモい」
「そんなことない。
友達の陰口を言っちゃだめだよ。」
そんな調子で始まったから、物珍しさで私に声をかけてくれた人たちもみんな居なくなった。
恋バナや下ネタで盛り上がってる休み時間、わたしは色鉛筆でとっとこハム太郎の絵を描いて満足していた。それだけの差があった。
気がつけば、給食の時にくっつけてるテーブルもわたしだけ孤島になり、悪口の手紙を回されるようになった。
今考えれば仕方がないことだと思う。
全てのシチュエーションがそうさせたものだし、わたしが逆の立場でもそう言う行動を取ったかも知れない。これはわたしが中国で育ったから偏見を受けたわけでもなく、ただ単に文化が違いすぎた。
郷に入れば郷に従え、
これは私のせいなのだ。自業自得だ。
ちなみに、今でも馴れ合いは苦手だからしない。したくもない。八方美人が一番嫌いな言葉だ。七方ブスでいい、その分一方に愛を注ぐだけだ。
わたしは二度小学校を卒業した、
しかし両方苦い思い出だけが残った。
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