「ダメな人はいない」と思う理由①
みなさん、急に寒くなりましたが(地域によりますよね)体調はいかがでしょうか。
今日は、OKANのプロフィールの中にある「OKAN語録」から。
「OKAN語録」とは、私が個人的に強く思うことです。
OKANの信念のようなものです。
その中の「ダメな人はいない」について書きます。
これは、人を励ますためや、表面上こう言うといいよね、というものではなく、OKANの場合は本気でそう思っているのです。
OKANの考えでは、世の中の誰1人ダメな人はいないのです。
そう思う理由はいくつかあります。
ひとつはモノの捉え方です。
「ダメ」をどう捉えるか。
「ダメ」という状態は人によります。
人の“認知”の仕方により、捉え方が様々になります。
心理学を学ぶとこのようなものが出てきます。
知覚→認知→感情→行動
これはひとつの考え方だと思ってください。
なぜなら、行動→感情などと考える人もいるからです。
OKANは、現代の情報過多の中で気をつけることとして、「ただひとつのものを正解」と考えるのは不正解かもしれないよね、と考えています。
(なんかややこしいですね・・・。私の考えや、色々な人の考えの何かひとつが、“ただひとつの正解ではない”、と言うことです)
話を戻しますね。
知覚(何か出来事)→認知(自分がそれをどう捉えるか)→感情(捉え方により、嬉しい・悲しい・悔しい・ムカつく・・・などなど)→行動(嬉しいから微笑む・悲しいから泣く・悔しいからにらむ・ムカついたからいじめる・・・などなど)
例えば、同じ出来事(知覚)があった時、認知の仕方に違いがあるのだろうか?
これを“Aちゃん”と“Bさん”で例えてみます。
例)大学の単位をひとつ落とした。
【Aちゃん】
「うわっ、まじか。やばい・・・けどしょうがないか。ちょっと忙しくて十分勉強できてなかったし。(とはいえ、けっこう頑張ったんだけどな・・・)。
でもまだ卒業まで時間はあるから、計画を立て直してみるか」
【Bさん】
「・・・えっ。私が単位を落とすなんてありえない。私は完璧でなければいけないのに。もうダメだ。やっぱり私は何をやってもダメなんだ。こんな私はダメな人なんだ。きっと周りの人も先生もみんなそう思うはず・・・」
他にも捉え方は人の数だけあると思いますが、例えとしてこの2つをあげてみました。
ここでは、自分のことを「ダメな人」と思うかどうかに焦点を当ててみます。
Aちゃんの捉え方は
「自分がダメな人だから単位を落とした」わけではないです。
Aちゃんの考え方は、
「単位を落としたのは自分がダメだから」ではなく、「単位を落としたのは、その時の状況(ちょっと忙しかった・十分勉強できてなかった)が原因と考えられる。だとしたら、“今後は忙しいから十分勉強できない”という状況を作らないように、長いスパンで計画を立ててみよう。というものです。
この考え方は、
・自分を客観視できている
・同じことをしないため(単位を落とさないため)にはどうすれば良いかを考える
ということで、多少ヘコんだり、ショックではあるものの、「何故上手くいかなかったのか?」を冷静に考えて、次へと向かっています。
何か上手くいかなかった場合(失敗ともいいますね)、同じことをすれば、また上手くいかないかもしれません。
だとしたら、別の方法を考え行動してみる。
しかし、また上手くいかないこともあるかもしれませんが、そうしたらまた別の方法を考えてみる。
これはよくいうトライ&エラーですね。
初めから「人生は上手くいかないこともある、誰でもね」と考えると失敗や挫折を目の前にしたとき、「ショックだけど、人間生きていればそういうこともあるか・・・。少し落ち込んだら、次は同じことが起きないように気をつけようかな」となるかもしれませんね。
このような考え方は合理的な思考と言うそうです。
では次にBさんの捉え方はどうでしょう・・・。
【Bさん】
「・・・えっ。私が単位を落とすなんてありえない。私は完璧でなければいけないのに。もうダメだ。やっぱり私は何をやってもダメなんだ。こんな私はダメな人なんだ。きっと周りの人も先生もみんなそう思うはず・・・」
この考え方をもつ人の中で、自分自身が生きづらさを抱えているようなら、それは合理的ではない(非合理的信念)と言われます。
まず、最初の
「私が単位を落とすなんてありえない」という考え。
事実として、単位を落とした。
「ありえない」という考えが、ちょっと自分を苦しめるかもしれません。
「単位を落とすなんてありえないけど、たまにはあるよね」と、考えることができるといいかもしれませんね。
次に
「私は完璧でなければいけないのに」という考え。
Bさんには、「自分が完璧でなければならない」理由があるのです。
ただ、人間は機械やコンピュータではないので完璧ではないときもあります。
「私は完璧でなければならないけど、状況によってはできないときもあるよね。それはしょうがない」と考えてもいいのかな、と思いますが、ここでそう簡単にいかない場合があります。
それはどういう場合かと言うと、重要な他者(親や養育者、親しい友達など身近な人)が、
「Bさんは完璧だよね」とか
「Bさんは完璧でなければならないんだよ」などと言う感じのことを繰り返し言う(無意識の要求をしてくる)ときです。
このような場合は、いくら自分で
「完璧じゃない時があってもいいよね」と思おうとしても、他者の言葉がそれを邪魔します。
何故そうなるのか。
ひとつの考え方として、Bさんは自分の考えよりも、他者の言葉の方が大事なのかもしれません。
それはBさんが弱いわけでも、Bさんが悪いわけでもありません。
他者が必死でそうしようとしているからです。
他者がBさんをコントロールしようとしているからです。
なので、Bさんが合理的な思考になれないのは自然なことなんです。
次に
「もうダメだ。やっぱり私は何をやってもダメなんだ。こんな私はダメな人なんだ。」という考え。
「ダメ」の基準って人それぞれなんです。
(コミュニティの中でルールがある場合は別です)
Bさんの「ダメ」の基準は、Bさんが育つ中で日常的に見たり聞いたりしたことの中から学んでいます。
大学の単位をひとつ落とした時に、ここまで自分をダメだと思う背景がBさんにはあるのです。
ただ、少し冷静に客観視すると、「単位をひとつ落とした」という事実は、Bさんという人間がダメなこととは結びつかないのです。
「単位をひとつ落とした」という事実は、ただそれだけのこと。
その事実があるだけのこと。
色々な考え方がありますが、
「ひとつしか落としてないよね」
「卒業はまだ先だよね」
「よく考えたら、たいした問題ではないんじゃないかな」
などと考えてもいいかもしれませんね。
考え方と事実は別なので、切り離して考えると「自分はダメ」にはならなかったりします。
ただ、先ほども書きましたが、いくら自分でそう思おうとしても、周りの人が気になることを言ってきたりします。
せっかく、合理的な考え方をしようとしても、それをワザワザ邪魔してくる人が世の中にはいるようです。
※ちなみに「合理的な考え方」と「都合のいい考え方」は違います。
「都合のいい考え方」は、人間の防衛機制のひとつで、自分の中の不快な感情などから逃れるために、行動や信念を正当化する、というものです。
例えとして、イソップ物語の「すっぱい葡萄」があげられています。
そして
「きっと周りの人も先生もみんなそう思うはず・・・」と言う考え。
そう思っちゃいますよね。
「きっと、みんな私のことをダメな人だと思っているんだ・・・」って。
・・ほんとにそうなのかな・・・。
ここでまた、事実はなんだろう?と考えてみませんか。
Bさんのことを「ダメな人」だと思っている人がいる事実はあるのだろうか。
これは、Bさんがそう思っているだけではないのだろうか・・・。
「思うこと」と「事実」は違いますよね。
人は、これが入り乱れて、頭の中で自分が勝手に考えただけのことを、まるで事実であるかのような感覚に陥ることがあります。
そうなると、Bさんのように「私はダメな人。みんなそう思っている」が事実のように感じてしまう。
もし、事実として「Bさんはダメな人ね」と誰かに言われたとしても、Bさんはダメな人ではないのです。
「ダメな人」という言葉は、それを口に出した人の言葉であり、Bさんのものではないのです。
「ダメな人ね」と言われた事実はあるけど、Bさんが「ダメな人」である事実はないということです。
なんかややこしいですね。
「あなたはダメな人」って言う人がいるから、言われた側が「自分はダメな人なんだ・・・」と捉えてしまうのだとOKANは考えます。
※頻度や言い方、関係性などが複雑に入り混じった時の場合です。
ちなみに、人に心無い言葉を発する人にも、何かしら背景があるとOKANは考えます。
ということで、同じ状況(大学の単位をひとつ落とした)だとしても、それぞれの捉え方(考え方、認知の仕方)は違う、ということです。
そして、捉え方により、感情も行動も変わってきます。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
とても嬉しいです。
もうひとつ「ダメな人はいない」と考える理由があるので、それは次回。
(6年間のボランティア活動で感じたことです)
では、またお会いしましょう。OKAN
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?