自分であるか、正しくあるか
「議論」の札を掲げた場や、その色を持った営みにおいて、しばしば方向感覚を失うことがある。東西南北だけでなく、無重力で上下左右もなくなったかのように、判断の拠り所が消えてしまうのだ。その時、それまで拠っていた「何か」は脚の壊れた椅子みたいに頼りがいに欠けて見える。
まず一つ、正しくありたいのだ。なるべく間違えたくない。失敗を重ねることがどれだけ学びになるかはエジソンの出どころのわからない格言で聞き飽きた。それでもしかし、なるべく客観的であまねく正しいと思われるような主題を