見出し画像

世の中の見え方が変わった話。

能登半島地震でお亡くなりになったか方々に哀悼の意を示すとともに、被災地で過ごされている方々の安心できる日が早く訪れることを祈っています。


今日のお話は、端的に表すと「わたしが脳内で再生している誰かの声や映像は、その人自身が言ってるのではなくて、わたし自身が装っている」ことに気づいたことで、自分が自分をいかに責めているか、監視しているか、ダメ出ししているかに気づいて、それを辞めようと思ったことです。
誰かがわたしを責めるような言葉を発したとします。確かにその時、その人はわたしを責めたかったかもしれない。
でもその人自身の中で起きていることは、わたしにはわかりません。ただ私がその人のその言葉を耳に入れ、その姿を目に入れた瞬間、体内に入ることでそれは「その人の姿をしたわたし」になるということです。
凄く嫌な思い出が、心の中で何度も繰り返されるけれど、その起点は確かに現実で起きた出来事ではあるけれど、それが目の前に起きていなければ、その繰り返しをしているのは自身の選択なのです。
それが例えば楽しくてハッピーな出来事であったとしても「今目の前に起きていない」ということは、そこに他人は関わっていなくて、わたしだけが繰り広げている私だけの劇場です。
楽しい出来事ではなくて、私はとにかく自分を責めるような否定的な言動を脳内で繰り返していたので、「いま1人でいるのだから、この思い出を繰り返しているのはわたし自身では?」と気づいたとき、わたしは「わたしって相当自分を攻撃したいんだな」とわかりました。
更に、勇気をもってより深く自分の悪意と向き合うと、そこには「(自分を責めた他人の姿を借りて)他人のせいにして、被害者を装うことでその人を責めつつ、自分は駄目だと自分へも攻撃している」というものでした。
わたしは強く自分を呪いながら、同じ強さで世の中を恨んでいるのです。

無意識化でそれが行われているときは止めようがないけれど、このことに気づいたときに「自分を苦しめるのはもう止めよう」と思いました。
誰かのせいにはできない。自分が選んでしていることだから。
たとえ無意識で繰り返されるとしても、そこには必ず選択があるんだと思いました。
この気づきの後、しばらくはこの妄想繰り返しモードは静まっていたのだけど、時々ふっと浮かぶことがあって、そのたびに「あ、またわたし、被害者意識に入ってる」「自分を攻撃してる」とはやめに気づくようにしています。
最初の頃は、気づいて止めるをしていたんだけど、止めるとどうも暴走するので、「気づいた後、それを見つめる」ようにしています。ようは、このことが繰り返されるとき、身体がどのような反応を示していて、どの様な感情が奥底にあるのかを感じ取っていくのです。
わたしはそれを、専門家に手助けしてもらいながら行っています。
みんな、セラピストとか、こころの専門家にもっと頼っていいと思います。
昔はもっと他人と心のつながりがあったのかもしれないけど、今は皆、自分自身の本当のこころや感情を置き去りにして他人と向かい合っているので、なんだかすれ違ってしまうのです。
だから、まず自分とつながるというチャレンジは、専門家の手を借りたらもっと深く、根源から行う愛ある作業になります。
だってこの苦しい作業の奥にあるのは「自分自身の本当の才能」だからです。この本当の才能に至るには、自分の恨みとか憎しみとか、目をそらしたいネガティブな感情を認める必要があって、その感情を身体で感じきらなければなりません。
それって一人ではとてもできません。
でも、そこを感じれば自分は変われて、心からこの世界に対して愛ある祈りを捧げられるようになるんだと今はもうわかっているので、勇気を持って進むことが大事なんです。

わたしは本当にかなり自動的に被害者意識に入りやすいのです。その理由は過去性も関係があって、何度も繰り返し癒している重点的な場所です。
まだ癒し切れていないので、そこにある才能には至れていないのですが、被害者意識にスライドするたびに、そのことに気づき「わたしの何がこの現実を引き起こしているのか」を見つ続けていたら、きっといつか気づくことができるだろうと思っています。
この現実はすべて私が創り出している。
外側には何もない。
そのことが最近やっと、少しわかるようになってきた気がします。
わたしが私を癒すのは、何よりわたし自身の為で、わたしという大切な存在はこの世にただ一つなので、とても大事にしてあげたいです。

「自分と他人を責めている自分」を捨てることで、世の中の見え方が変わり、人の顔が優しく見えるようになりました。
今まで誰を見てもなんだか怒っているように見えて、目が合うたびに心臓が縮こまる思いをしていたのですが、それがマシになりました。
まるで見え方がわかったんです。
やっとタイトル回収できたぞ。
姿を借りていた他人で、一番多いのは母親でした。関わる時間が長かったので当たり前のことかもしれません。
その繰り返していた自分を苦しめる母親も「実存している母」ではなく「心の中で演じていた私」であり「イメージの中の母」だとわかったときに、どれだけ近しい人であっても、人と人は、イメージを通してしか関わりあえないとわかりました。
他者として存在する限り、この三次元で一つになることはできません。
だからこそ、人と繋がりあうことは、チャレンジであるし、具現化した愛の姿なのでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?