「笑い」適当な雑記(2021年5月18日)

笑いというかユーモアというかバラエティというか、それらには秩序を崩しフラットにするパワーがある。

凄まじい防衛を誇る具志堅用高や、剛腕プロレスラーの長州力は、その本業での輝かしい実践が一切無視されるかたちで、バラエティ番組では「おバカ」「滑舌が悪い」対象として受容される。

笑いにおいて、その他の事柄は等しく「ネタ」でしかない。その全てを「ネタ」に変えてしまうパワーは、抑圧的な秩序を混ぜっ返し、「日常のガス抜き」として機能する。

楽しさや可笑しさだけなく、あまりにも驚きすぎたときに人は笑ってしまうが、それは感情の行きどころが無くなり渋滞を招き、玉突き事故の連続で車道から感情が溢れ出たようなものだろう。抑圧と開放。緊張と緩和。溜め込んだものをゼロにするような、笑いにはなんとなくそういう感じがある。

ワイドショーにおける芸人登用問題は、結局のところ彼ら彼女らのコミニュケーションには溜め込んだ圧力をゼロにする力学が染み付いているところに本質がある。
彼ら彼女らは、建設的な議論するという訓練は一切受けていない。むしろ建設された議論を破壊する技術にのみ長けている。だから芸人がやる帯番組の情報バラエティなるものの議論は、決して前身もしないし後退もしない。
報道番組でもなく、バラエティ番組でもなく、情報バラエティというどっちつかずの本来間(あわい)であるような番組形態が、この国のある世代以上の世論を動かす求心力を持ってしまっている状況は鬱々たるものだ。


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