見出し画像

下手くそがサッカー選手になった方法【2】


前回の続きで、私の高校時代の話をします。

高校3年間の話をして、
そこから学んだこと
感じたこと
伝えたいことを最後に書こうと思います。

繋がりがよくわからないという方は、
以前の投稿を見ていただきたいと思います。

4、ユースでの3年間


高校は鹿島アントラーズユースに所属して、
寮生活を送るようになりました。

入寮早々、軽いホームシックになり、
そこから親への感謝の気持ちが膨らんでいきました。

離れて初めて気づくありがたさがありました。

中学生のころはものすごい反抗期だったのですが、
すぐに終わりました。笑

この3年間は本当に濃い3年間でした。

みんなが同じ寮に住み、
みんなが同じ学校に通い、
みんなが同じ場所でサッカーをする。

ずっと一緒に行動していました。



サッカーの方でも
ユースになると、学年別に分かれた大会というのは無くなり、
練習も全学年一緒にやりました。

そこですぐに自分の力の無さを痛感しました。

ユースに上がれるような選手じゃないなと
常に悲観的に考えていました。

さらに上下関係も厳しくなり、
理不尽」だなと思うこともありました。

正直練習に行きたくありませんでした。

高校1年の夏にある国体にも選ばれることもなく、
公式戦の出場はもちろん0です。

練習試合にもまともに出場ができない。

国体に落ちた1年生と
2年生、3年生で出雲までバスで行った大会でも
ほとんど力になることなく帰ってきました。

力になったと言えば、その遠征期間の
洗濯くらいでしたね。笑

席がないので通路で寝たりもしてました。


しかし、やはりレベルが高い「環境」にいたので、
周りに引き上げてもらうように
日々の練習に取り組むことができていました。

その結果、1年の冬ころから
自分でも実感できるくらいに成長していき、
入学当初とは打って変わって、
練習が楽しみで、早く学校終わらないかなと考えていました。

寮の制度、そして監督もブラジル人のキッカに変わるなど、
大きな変化が起こり、わくわくして臨んでいました。


そんなときでした。


練習中に骨折。
右足首です。

頼むから捻挫であってくれと願いましたが、
しっかりと折れてました。

全治約4か月。

めちゃくちゃ悔しかったですね。本当に。

なんで今なんだよって思いました。


ですがやっぱり中学の時の後悔があったので、
この時期だからこそできることもあると思い、
リハビリに励みました。

トレーナーさんや、
同時期に怪我をしていたチームメイトの存在も大きかったですね。
やはりまだ自分ひとりでは難しかったと思います。


周りの環境
が僕をいい方向に向けてくれました。


しっかりとリハビリができたおかげで、
復帰した後も調子が良く、
痛みも残らずに毎日楽しく練習していました。



当時、居残り練習は基本的に禁止でした。
監督のキッカの意向です。

日本人は、下手なら練習。とにかく練習
という考え方の人が多いと思います。

実際私もそう思っていました。
はじめは理解するのに苦しみました。

徐々に理解するようにはなりましたが、
それでも、自分が成長するうえで
この練習量では足りないと感じるようになり、
チームメイトと練習後に帰ったふりをして、
違うグラウンドに行って練習をして
点呼に間に合うように帰るという日々も送っていました。

そんな生活を送るようになって、
徐々にですがまた成長することができていました。

ずる賢さ」も大事です。

優等生がいいとは限りません。

ただずるかったり、反発すればいいというわけではありません。

賢さ」が重要です。




私がユース時代で特に悔しかった試合が2試合あります。


1、Jユースカップ2011 準々決勝 vsセレッソ大阪U-18@キンチョウスタジアム
2、Jユースカップ2012 決勝トーナメント2回戦(ベスト16) vs横浜FMユース@鹿島アントラーズクラブハウス


1つ目の試合は、2年生の10月か11月の時で、
正GKの先輩の選手が大学の受験の日と
試合の日が重なってしまったことから
急遽出場することになった試合でした。


Jユースカップというのは、秋から冬にかけて行われる
負けたら終わりのカップ戦で、
クラブチームがぶつかり合う大会です。

秋から冬にかけて行うのため、
3年生にとってはこれが最後のカップ戦になる
非常に重要な大会でした。


私はこの試合までほとんど試合に出場していませんでした。
公式戦に先発するのは、
中3の最後の大会以来だったと思うので、約2年ぶりでした。

GKというポジション柄、ミスも許されない
そして何より、負けられない
負けたら先輩たちの最後のカップ戦を終わらせてしまうことになる。

吐き気がするほど緊張していました。
キンチョウスタジアムだったからなのかな。笑


そんな中でも常に準備して、
いつでも安定したパフォーマンスを出せる選手が
スターになっていくのでしょうが、
私は生ごみ同然の選手だったので、
なにも準備していたものを出せませんでした。

危ないシーンがすべてゴールになってしまうような感じでした。


現在、リバプールに所属している日本代表の南野拓実選手が
相手チームにいて、しっかりハットトリックさせられました。


すこすこにやられました。

またここでも自分の無力さを痛感しました。



そしてもう一試合の悔しい試合は自分が3年生のときのJユースカップです。

またもJユースカップ。この大会にいい思い出が全くありません。



この日は雨が降っていました。

ベスト8をかけたカップ戦。負けたら終わり。

前半はどちらも譲らず0-0で折り返しましたが、
後半に入ってすぐに先制。

しかし、ラスト10分くらいで連続2失点。
このどちらも完全に防げた2失点でした。

またもや自分の力不足で
最後の大会を終わらせてしまいました。

GKはひとつのミスが致命傷になります。




GKはどれだけいいプレーをしていても
ひとつイージーミスをしてしまって0-1で負けたら敗因はGK。

FWはどれだけ悪いプレーをしていても
ひとつのチャンスを決めて1-0で勝ったら勝因はFW。




GKとはこういうポジションです。

ユースの時でこれを強く感じました。
まあ僕の場合、イージーミスが多すぎたんですけどね。


悔しい試合を2試合挙げましたが、
もちろん嬉しい試合もありました。

その中でもダントツで嬉しかった試合は

高円宮杯U-18サッカーリーグ2012 プレミアリーグEAST 第15節 vs浦和レッズユース@鹿島アントラーズクラブハウス


これですね。完全に。

この試合は今でも思い返します。



プレミアリーグEASTというのは、
高校年代でいうJ1リーグのようなものです。

クラブチーム、高体連の全チームが参加するトップのリーグ戦です。

10チームでホーム&アウェイで試合を行い、
全18節終了後の下位2チームは降格、
1位のチームは、プレミアリーグWESTの1位のチームと対戦し、
勝利チームが全国優勝。
全国の高校年代のチームの真のチャンピオンを決める唯一の大会でした。

ですが我々の鹿島アントラーズユースは、
第14節終了時に9位で降格圏内
さらに第15節の相手はひとつ順位が上の浦和レッズユース
この試合に負けたら、降格がほぼ決まるという
この1年の中で最も重要な試合でした。


そんな試合なのにもかかわらず、
序盤から浦和にペースを握られて前半終了時で0-2

しかし完全に後半から別チームになっていました。


後半開始早々1点、そしてその後立て続けに1点とり同点に。

しかし、ここから逆転が難しく
なかなかゴールネットを揺らせませんでした。

引き分けは順位が下の僕たちにとっては嬉しくない結果。
どうしても勝ち点3が欲しかった。


そしてラストプレー。

セットプレーで得点。

3-2

その後試合はすぐに終了。
0-2からの大逆転勝利。

サポーターの方も一緒に大喜びしました。
自分が出ている試合で初めて感動しました。


本当に嬉しかったです。


ユースで嬉しい思いも悔しい思いも経験しました。

それは、みんなで寮生活をし、
同じ学校に行き、
毎日トレーニングをし、
苦しい時間を超えてきたからこそです。

共にたくさんの経験をしてきた仲間はやはり特別です。

真剣に取り組んでいたからこそ味わえるものもありました。



そしてユースを卒業後、
私は地元である水戸ホーリーホックに入団をします。


憧れだったJリーガーです。




それが決まったのは前述の浦和ユース戦の直前だった気がします。

偶然ですが、練習参加は私の誕生日でもある9月28日の1日だけ行きました。

誕生日だったせいか、その時のパフォーマンスが良く、
その後に水戸からオファーをいただきました。

後に知りましたが、その当時水戸は若いGKを探していたみたいです。

タイミングがよかったことも入団の要因でした。

水戸市出身ということも大きかったと思います。

なんかいろいろ条件がよかったですね。

完全に運で入団できたと思います。笑





自分的には鹿島でプロサッカー選手として活躍したかったですが、
その夢はかないませんでした。

当時のコーチにトレーニングとトレーニングの合間に
さらっと言われたことを覚えていますね。


「今回の昇格は無かったけど………」


まあ正直無理だと思っていたのでそこまで驚きませんでしたが、
少しショックでしたね。

無理だとは思っていても心のどこかには
「もしかしたら」があったので。



オファーをいただいた後に、ユースのコーチではありませんでしたが、
中学の時からお世話になっていたコーチと話す機会がありました。

その方に僕は水戸入団を強く反対されました。


理由は環境です。

当時の水戸の環境はとてもいいものとは言えませんでした。

若手でも管理してくれる人がおらず、ご飯も適当。
生活リズムも適当でした。
自分でそこを律していける選手であれば問題ありませんが、
私は全くできないタイプでした。

それを見抜いていたのだと思います。

コーチは強く反対し、大学進学を勧めてきました。

断ろうと考えた瞬間もありました。

しかし、いろいろ考えた結果、
プロサッカー選手になれるという夢を諦めることができませんでした。


こうして下手くそ岡田明久はサッカー選手になりました。

画像1



5、下手くそがサッカー選手になるには


サッカー選手になるまでの流れを大まかに書きました。

それを踏まえて、
サッカー選手になりたい
考えている学生は

・高いレベルの環境に飛び込め
・質を求めた練習の量
常に考えろ

の3つです。

ただ、この3つはよく言われていることだと思います。



今回は下手くそがサッカー選手になるために書いています。



下手くそがなるには人よりも強い「」が必要になります。



運についての言葉で好きなフレーズがあります。

運は動より生ず

私はこれを
運は行動に移していないと生まれない
と勝手に解釈しています。

運はなにもせずに待っている人ではなく、
自ら行動している人に生まれると思っています。



下手な学生に伝えたいことは


自発的な行動量を増やせ


これです。

上記の3つにもこだわりながら、
自ら考えて
自ら行動して
自ら反省する。


質は量から生まれる力、運も量から生まれる力



まあ運だけで入団してしまったこともあり、
水戸所属5年でJリーグ出場は0で引退してしまいましたが………笑


プロになってからもたくさんのことを経験しました。

サッカー選手としては結果を残すことはできなかったですが、
本気で取り組んで経験できたことによって成長できたと思います。




これを書いていて改めて
やっぱりサッカーっていいなあ
という小学生みたいな気持ちに気付きました。

サッカースクールも楽しかったな。
子供が成長している姿を見るのが毎週楽しみでした。


話が逸れてしまい申し訳ありませんでした。

また、長くなってしまい申し訳ありませんでした。

本当はこれでもまだまだ書き足りないくらいです。笑

またプロになってからの話も書きたいと思います。

むしろそこからの方がさらに濃い経験をできたと思います。

サッカー選手サッカーチームのフロント業務
どちらからも得られるものが多くありました。

それをしっかりと言語化して、
お伝えできればと思います。

そして、そのサッカー選手の時よりも
濃い経験ができたなと言えるように
これからもどんどん行動していきたいと思います。

読んでいただいてありがとうございます。

言語化って難しいですね、、、

しかし、その重要性をnoteを通して実感しています。



岡田明久



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?