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浦賀日誌(九) 肺癌大概記

肺癌大概記

毎年受けている大学の健康診断で、今年は異変が起こった。二週間後、診断結果が自宅に郵送され、それには呼吸器の欄に「左上肺野微細斑点状陰影」(要経過観察六カ月)とあった。とうとう来やがったな…、と思った。

わたしの喫煙歴は長い。十八歳の予備校時代から本格的に吸いつづけ、大学時代は吸い過ぎて胸が痛くなることも屡々だった。どろ〜んと黒く、薄気味悪い、大きな痰が排出され、咳が止まらなくなった記憶など、数知れない。タバコの銘柄は想い出すままに紙巻きではロングピース、ハイライト、ショートホープ、大前門、工農兵、雲煙、鳳凰、友誼、555、キャメル、マルボロ(ライト)、偽マルボロ・ライト(中国福建石獅密造品)、ラーク、ラークマイルド、マイルドセブン、セーラム・ライト、そして加熱式電子タバコになり、ヒーツ・クリアシルバーと変遷し、現在に至っている。途中、何度か禁煙したこともあったが、いずれも数年で破れ、長くはつづかなかった。二十代のころから文字を書く仕事を始め、執筆中はほとんど煙を絶やしたことがない。吸いつづけである。

いく人かの友人に「左上肺野微細斑点状陰影」の宣告を話すと、みな、できる限り早く精密検査をしなさい、と勧めてくれた。わたしも、そう思う。五十年以上も、毎日、二十本以上は吸いつづけてきたので、癌になっても不思議ではない。患ったら、治療をしなければならない。それが、煩わしく、厄介なのだ。予感があったのかもしれない。あるいは地域トモダチの敦賀さんが、昨年、前立腺癌を得て、放射線治療に苦しんだからなのかもしれない。この保険嫌いなわたしが、今年三月、ガン保険と普通の医療保険の二股をかけ、高度先端医療の適用もできるようにした。敦賀さんは保険に入ってちょうど一年目に癌が判明し、代理店の佐藤さんから、これでは儲からない、と皮肉られた。わたしは半年しかたっていない。佐藤さんは、はたしてなんと言うだろうか。

さっそくかかりつけの総合病院の主治医に相談し、精密検査の予約をしてもらった。そして二週間後の昨日が CT 検査日、早朝の街路を歩くのが心地よい冬晴れの日だった。肺の CT 断層撮影はいたって簡単で、機械に身体を入れてわずか三分で終わった。技術の進歩とは凄いものだ。そして、きょう、呼吸器専門内科で検査結果が宣告される日になった。判決が降るのである。喫煙歴五十有余年の積み重ねに評価が下されるのだ。午前十時の予約をとってあるので、三十分ほど早く到着し、待合室でコーヒーなどを飲み、いま取り組んでいる『古事記』をペラペラとめくりながら呼ばれるのを待つ。予約時間の十分ほど前に呼び出しのアナウンスがあった。三番診察室だ。

担当は、女医だった。これまでの人生で、女性医師に診てもらった経験は少ないので、よく覚えている。一回目は、二十代のまだ若かったころ、肛門から不正出血があり、ちょうどそのころ、当時、結婚していた配偶者と別居し、東小金井で荒れた生活をしていた。職場が新宿の高層ビル街にあったので、隣の東京女子医大病院に受診した。若く、美しい女医は医療用手袋をはめると、素早くわたしの肛門にワセリンを塗り、指を深く差し入れ、さまざまに「触診」した。終わって、異常はありません、と告げられた。二度目は、地元の浦賀病院だった。ここの女医は三十歳代と思われ、わたしとおなじ横浜市立大学の医学部出身で、それほどの美人というわけではなかったが、親身になって対応してくれた。おなじ大学の出身というところに好感してくれたのかもしれない。長い中国生活でボロボロになっていた身体を治すために、適切な処置を施してくれ、そのおかげでわたしの肉体はどうにか自力で生存できるまでに回復した。そして、今回が三度目だ。おそらく四十代の前半であろう静かな落ち着きがあり、いかにも頭の良さそうな風貌と、知的な話ぶりはさすがである。わたしは最近まで医科大学で医学生を教えていて、そこには幾人もの優秀な女子がいた。彼女たちも、きっと、いま対面している女医のように、患者に寄り添って医療を提供する立派な医師になってほしいと思う。

肺癌大概記

診察が始まった。デスクのパソコン画面に、昨日に撮ったわたしの肺の写真が大きく映し出されている。左右両肺ともに白く曇った部位が多く、素人がみてもこれは尋常ではないぞ、と思えるような画像だ。病状は、進行しているのかも知れない。やばいな…、と思う。女医は、こまかく問診し、それを丁寧に電子カルテに書き込んでゆく。わたしは自分の肺の画像をみながら、それにひとつひとつ答える。問診はつづく。こんな丁寧に問診された経験は少ない。やはり若かったころ、信濃町の慶応病院で気管に真鍮製の長く、太い直達鏡をぶち込まれ、その苦しさに辟易した診察以来だ。なんで、こんな詳しい問診をするのだろう。きっと、これからつづく出口の見つけにくい治療や手術のために必要なのだろうと考え、わたしもできる限り詳細に、真面目にそれに応じた。長い問診が終わり、女医はわたしがいちばん知りたい、そして、できれば聴きたくない話の核心部分に入ってきた。まず、断層写真のスライド・ショーを見せてくれ、肺の各部位の状況を的確に説明してくれた。そして、健康診断の結果はどのように書いてあったのか、とたずねてきたので、わたしは郵送されてきた書類をそのまま渡した。女医は、それを注意深く読む。そして、最後に言った。指摘されている左上肺野も含め、右、左の肺ともに、とくに異常は認められません。喫煙は身体にダメージが大きいので、できればいまからでも止めたほうがよいでしょう、と。わたしは、半年間の経過観察は必要ですか、とたずねた。女医は、毎年の健康診断をつづけて受けてゆけば、それでよいでしょう。どうぞ、お大事に。それで、診察は終わった。

わたしの手元に、いま、吸いかけの加熱式電子タバコ「ヒーツ・クリアシルバー」が、あと十一本ほど残っている。これをぜんぶ吸い終わったら、五十有余年もの長きに渡った喫煙の習慣を終わりにしようと考えている。

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