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老残日誌(十七)


万県船着場(宜昌)

たとえば筆者が北京に暮らした一九七〇年代における記録の一般的な方法は、写真機や筆記、オープンリールのテープレコーダによる録音、そしてみずからの記憶にたよるくらいしかなかった。文章を書くことを仕事とするようになるまで、生活や旅の記録をつける習慣はあったり、なかったりで、とてもいい加減だった。当時のあれこれはその細部を再現しようとすれば、写真の裏に走り書きしたメモや、あるいは「百年暦」をつかって月日や曜日を特定しようとするのだが、曖昧な状況にすぐゆきづまってしまうことが多い。

一九七九年一月末、北京語言学院留学生辦公室が組織した西南旅行には、武漢から重慶まで数日かけて定期船で揚子江を遡る旅程があった。途中、万県に数時間ほど寄港したので降船して江岸をのぼり、周辺の村を散策したことを覚えている。写真は、下船直後に撮影したものらしい。当時、身長は百七十一センチ、体重は五十二キロだった。老残したいま、悲しいことだが、背丈は二センチほど縮み、重量は十キロ以上も増えてしまった。武漢から重慶までの四日間に荊州とか宜昌、あるいは無名の波止場など寄港地はたくさんあったが、それが夜間だったり、あるいは停泊時間が短かったりで、途中で上陸したのはここだけだったような気がする。

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写真に写っている自分の顔の表情を見ると、あまり楽しそうではない。武漢で船に乗ったとたんに親不知(おやしらず)が暴れだして猛烈に疼きはじめたので、ちょっと下船して散策どころではなかったのかもしれない。明確なのは写真が残してくれた印画紙の画像情報だけで、肝心の脳細胞による記憶はあまり残っていない。数日後、重慶に着いて市口腔医院に駆け込み、旧式のレントゲンで撮った写真によれば、親不知は歯茎の内部で水平に生え、根っこのところで隣の歯に激突していた。それで、猛烈に痛かったのだ。

万県はミカンの産地だった。揚子江岸に展開する農村を歩き、数人の仲間で小銭を出しあい、竹で編んだ背負い籠いっぱいになるまで買って、船に持ち帰って喰った。これは、いまでも舌の記憶がかろうじて覚えている。当時の中国の社会状況を知っている人にならすぐにわかってもらえると思うが、北京などではとうてい望めない、はじけるように新鮮なミカンの味だったのだ。

万県(揚子江をみる人立ち)

ここは、港といっても桟橋があるわけではなく、陸(おか)と江上の船のあいだに長い板で橋を渡し、それを伝って下船し、そして乗船した。揚子江の岸辺では付近の住民が衣服を洗濯したり、鍋や釜、野菜などを洗ったりしていた風景が懐かしい。なんとものどかな光景だった。殺伐とした江岸の風景、重慶にむかうまるで奴隷船のような旧式大型貨客船における中国人客の阿鼻叫喚、そしておぞましいほどに不潔な船内環境にさらされた船旅からつかのま開放され、水辺に近い村の穏やかな風情に触れた記憶はおぼろげながらいまでも残っている。水辺に竹で編んだ低い櫓(やぐら)に長い板を沖まで渡しただけのみすぼらしい桟橋は、いまではきっと立派な施設に代わり、乗り降りは当時と比べものにならないほど便利になっているにちがいない。

北京から南下した留学生にとって万県の縹渺とした風景はとてつもない田舎で、しかしどこかノスタルジーを刺激する原風景だった。現地の人々は男も女も灰色か紺の人民服を身に纏い、冬だったので、子供たちは薄ぼけた色の棉襖(綿入れ)を着て、三々五々、それぞれの活動にいそしんでいる。周辺には薄っすらと朝靄が立ち込め、このぼんやりした景色がわたしの中国のイメージとして永く定着している。筆者にとって、社会主義とは勇ましい革命などではなく、連鎖する貧困、練炭を燃やすときに出る炭焼き小屋のような香ばしい匂い、街路に右往左往する人民、頻繁に吐かれる痰、人の身体が放つ強烈なニンニク臭、そしてこのつかみどころのないぼんやりした雰囲気なのだ。

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あのとき以来、揚子江を船で航行したことはない。これからも、ふたたび行くことはないような気がする。それは、あの若かったころに遊んだ大河のかすかな記憶をあえて更新したくない、という気持ちがどこかにあるからなのかもしれない。これまで六十七年間の人生には、すぐに消去してしまいたい、あるいはできるだけ早く更新したい、という事柄もたくさんあった。それと同時に、いつまでもそのまま大切にとっておきたい想い出もある。記憶やそれを支援する記録という行為には、まことに自分勝手なことが多い。

Petri V6+50mm 1:1.7

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