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老残日誌(二十五)

「故」と「古」について


廃黄河の取材で河南や蘇北(江蘇北部)の大地を広域に歩いていたころなので、もうかれこれ十年以上も前のことだ。出講していた大学で教学のパートナーを組んでいた中国人の同僚女性と話していたとき話題が廃黄河に及び、筆者が「黄河故道」という言葉を発すると、その同僚はそれを黄河「古」道と訂正した。はたして、そうなのだろうか。

廃黄河とは、すでに廃止された黄河を指す言葉だが、その河道は現在、開封郊外にある蘭考県の挟河灘村で黄河本流から分岐し、商丘、徐州、宿遷などをへて洪澤湖畔に広がる淮安から海側の濱海にそっておだやかに流れ、最後は縹緲とした風景が特徴的な沿海部の廃黄河口で黄海に注いでいる。黄河の「故道」と「古道」は、いったいどちらが正しい表現なのだろうか。正解は「故道」である。中国地図出版社が発行する『河南省地図冊』や『江蘇省地図冊』は、いずれも「故道」のほうを採用している。また、蘭考や商丘、徐州、宿遷などの街路で売っている遊覧地図にも「故道」と記され、「古道」という表現はほとんどない。

蘇山頭廃黄河橋

ためしに商務印書館の『辞源』や『古代漢語詞典』、そして諸橋轍次の『大漢和辞典』などを引いてみると、「故」には「縁故」とか「本来」、あるいは「依旧」などの意味があり、派生語として「故人」とか「故道」などがあげられている。これは単に古いことを意味するのではなく、いまの社会や人とのゆかりや馴染みを持って現存していることを表す言葉である。たとえば日本語のなかにいまでも残る「故人」とか「故地」、「古城」などがこれにあたり、すでに亡くなったか、あるいは失われてしまったが、その記憶や関係性がいまも色濃く残っていることを表現している。唐の王維が詠んだ「送元二使安西」(元二の安西に使いするを送る)に「故人」という言葉が出てくる。

渭城朝雨潤軽塵(渭城の朝雨 軽塵を潤し)
               客舎青青柳色新(客舎青々 柳色新たなり)               勧君更尽一杯酒(君に勧む 更に尽くせ一杯の酒)
            西出陽関無故人(西のかた陽関を出づれば 故人無からん)

渭城は、長安を出発して渭水を渡った咸陽の東郊にあった。現在の咸陽市渭城区のあたりだろう。長安から西北へ向かう道の最初の宿場だったのだ。王維は河西回廊の安西に使わされる親友の元二を渭城まで見おくった。第四句にみる「西出陽関無故人」(はるか西の陽関を過ぎれば、もう知る人はいないのだ)の「故人」は、「なじみのある親しい人」という意味で、昔の人という意味ではない。遠く知己もいない塞外の地へ旅立つ親友を渭城まで送って一夜痛飲し、これから始まるであろう腹心の友の苦難を思いやって詠んだ詩である。

1天沐湖

一方の「古」は、おなじ辞典によれば「時代久遠」という意味で、「昔」とか「古い」という意味だけで、一般的には「故」にみられるような「ゆかり」や「なじみ」というニュアンスまでは含まない。白川静の『字通』は「古」の字義を「久古」とし、「古風」とか「古人」など夥しい数の派生語をあげている。「古人」の条では李白の「把酒問月」(酒を把って月に問う)を取り上げ、次の二句を紹介している。

古人今人若流水(古人今人 流れる水の若く)
              共看明月皆如此(共に明月を看ること 皆此の如し)

詩中にみる「古人」は単純に「古(いにしえ)の人」の意味しかない。「故」とは明らかに異なるのである。

古黄河碑

しかし、たとえば「古黄河」などの表現がまったくないわけではない。事実、徐州東郊の廃黄河畔には真新しい「古黄河」の碑が建っている。この場合の「古」には久遠という意味だけでなく、徐州の歴史を幾世代にもわたってながめてきた黄河と町の縁(えにし)を明確にみてとれる。それでは、なぜ「故」ではなく、あえて「古」の字を使ったのだろうか。それは音声学的な観点から判断したとき、「古」の字の音が「故」よりも人の感性にやわらかく作用し、容易に口の端にのぼることを碑の命名者が予想できたからなのではないか。言語とは人の伝達や思考の手段であり、必要があればこのように小さな逸脱があっても許されるのだと思う。

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