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老残日誌(二十二)

王府井大街と東風市場


長安街から王府井大街に折れて北へ進むと、ほどなく左手に大甜水井胡同の入り口がみえてくる。名称の字義は「大きな甜い水の井戸」なので、飲料水として使われたものだろう。飲用に適さない水は「苦水」と呼ばれる。紫禁城まで目と鼻の先の距離だから、このあたり一帯には王府が点在した。この場合の王府とは、皇帝の係累が棲まう邸宅のことを指している。甜水の井戸は、王府に飲み水を供給する目的で使われたにちがいない。だから、王府の井戸を表す「王府井」という名称が一帯の地名として定着したのだろう。

一九八〇年代からはじまった再開発で、西や東側から王府井大街に接続する小さな胡同は大道からはじき出された小店鋪のふきだまりとなり、零落した老醜をさらしていたが、現在ではいわゆる「低端人口」(下層人口)の排除にともない、その零落すらもすっかり取り除かれ、かつてのような文化的な趣が捨象され、どこにでもあるようなツルピカの街路に変貌させられ、新生王府井大街、すなわち北京の「いつわりの表面」を盛りたてるための道具になりつつある。大甜水井の一本南の筋にあった小甜水井胡同は区画整理で消滅し、いまとなってはほとんど市井の人々の話題にものぼらなくなってしまった。

一九七〇年代後半の王府井

胡同の起源は、元王朝(一二七九〜一三六八)にまでさかのぼることができよう。語源はモンゴル語の「井戸」だといわれる。水が湧くところに人が住み、それが大きくなると「巷」になり、そして「街」ができる。胡同(hutong)は、現在、内モンゴル自治区の行政区画内に組み込まれている呼和浩特(フフホト)や錫林浩特(シリンホト)、二連浩特(アルリエンホト)などの「浩特」(haote)と語源をおなじくするものではないかと思う。

元は西夏、金、南宋を併せ、モンゴル族が中国を統一した最初の王朝であった。世祖のフビライは両都制を敷いた。上都としての開平府を内蒙古のドロンノール(多倫)に置き、大都を現在の北京に築城した。上都は夏営地、大都は冬営地で、約三百キロほど離れた両都を季節にあわせて移動した。胡同は冬営地である大都のすみずみにまで血を通わせて栄養を送る、いわば毛細血管のような役割を担った。

前世紀の一九七〇〜八〇年代のなかばころまでの王府井大街は、まだ近代の面影を残す文化的な魅力にあふれていた。北京の再開発事業は人文破壊の歴史ともいえ、情緒や風情が改悪されることはあっても、改善されることはほとんどなかった。環境設計者が資本の論理に忠実でありすぎるため、棲みやすい街づくりの思考がおろそかにされた結果なのだろう。

王府井の裏町

当時の王府井大街には人の流れの要所に、いまはもうほとんどいなくなっしまった「売氷塊児的」(アイスキャンディ売り)や「存車処的」(自転車置き場の料金徴収人)の姿があって懐かしい。アイスキャンディは箱車の蓋に布団をかけ、それが保温効果を発揮して商品が溶けないように工夫してあった。箱車の上には決まって木製の銭箱が置かれ、売り上げはそこに納め、釣り銭もそこから出して客に渡した。北京に暮らした一九七〇年代後半には「奶油味児」(ミルク味)のアイスキャンディが一本一角(〇・一元)ぐらいだったと思う。北京市民は氷天の真冬でも「氷塊児」を買って嘗めた。夏場は、それを常温のビールやジュースに投入して、氷の代わりに冷やして飲んだ。市井の人たちの知恵である。山査子の実を飴で包んだ「糖葫蘆」も北京の名物だ。乾燥して埃っぽい北京では、ベタベタした糖葫蘆の飴の表面に埃がいっぱい付着したが、そんなことはかまわずに、どんどんかじった。

売氷塊的

王府井大街でもっとも規模が大きかった東風市場に一歩足を踏み入れると、そこには薄暗く、広大な商場が展開する。奥深くて中二階みたいな作りもあり、いったん進入したら出て来られなくなるのではないか、と不安になってしまうようなカオス的な魔力に満ちていた。

東風市場は、なぜそんなに大きかったのか。資料によれば、古くは平西王府邸であったとされる。「王府」と称されるからには皇帝の係累の邸宅だったのだろうが、それがはたして誰であったのか、さまざまな説があって特定するのは難しい。そこは康煕年間になると怡親王府となり、清末にはあの家書(家族や親類への書簡)で有名な曾文正(国藩)や李鴻章ら清朝重臣の生活拠点として使われ、その後は清朝八旗軍の練兵場でもあったとされる。どうりで、敷地が宏大なはずだ。

東風市場は歴史も古い。清の光緒二十九(一九〇三)年、北京で最初の近代商場「東安市場」としてスタートした。まさに、「百年老店」なのだ。東安市場の「東安」とは、至近に屹立する東安門にちなんだものであろう。東安門は現在の市容から言えば、故宮に向かう東華門大街が、現在は暗渠、あるいは埋められてしまった北河沿(通恵河=大運河の北京市内路段)の岸で東安門大街に合流する地点にあった。文化大革命中の一九六九年、毛沢東が主唱した「東風圧倒西風」(東風は西風を圧倒する。東風は中国、西風は西洋諸国を指す)にちなんで「東風市場」と勇ましく改名され、一九八八年になって、やっともとのみやびな「東安市場」という呼称にもどっている。

筆者は一九七〇年代の後半から北京に暮らしたので、政治的な雰囲気に満ちた「東風市場」という名称が、当時の殺伐とした首都の風景とシンクロしていちばんしっくりくる。東風市場には北門と三つの西門のあわせて四つの入り口があった。王府井大街に面した西門は、南から順に南門、中門、西門とも称された。いちばん大きな入り口は各種の化粧箱を専門に売る店から大街を隔てた中門で、南門は北京市百貨大楼の対面に、西門は外文書店の向かい、そして北門は金魚胡同に面していた。

新華書店

北門の隣には民族飯荘(東来順)があって、仲間たちとよく留学生価格で涮羊肉(羊肉しゃぶしゃぶ)を喰いに行った。プロの給仕(服務員)が戸板のように大きな板に二十種類ほどの「調料」(調味料)を載せて、さあ、好きなようにやってくれ、みたいな雰囲気で運んできてくれた。北京の冬の羊肉は、良質の脂がのっていてまことに美味である。民族飯荘のような老舗でも中国人向けの価格は一人前、二〜三元(一元=百六十円)くらいだったと思う。街中にある普通の小さな涮羊肉店なら、羊肉一キロを一元くらいで食すことができた。

当時、金魚胡同は王府井から東四大街にぬけることのできる細く枯れた小路で、そのまんなかあたりの北側に北京では唯一の民営喫茶店があり、人工着色料の色鮮やかなケーキ類や粉っぽい国産コーヒーを供していた。いまから思えばとんでもない田舎風情の店なのだが、当時としては資本主義の「悪」の香りが濃厚に漂う退廃した隠れ家みたいな至高の存在で、社会主義社会のもうひとつの先端をゆく素人売春の斡旋もしていた。その喫茶店に、スリランカのバンダラナイケ家から北京留学にやってきた同学が乗り込んで奥の部屋にもぐりこんだ。なかなか手を出さない外国人にしびれをきらした業余(アルバイト)売春婦嬢が、「あなた、やるの、やらないの…」とせまると、バンダラナイケ君は「そうじゃない。なぜこんなことをするのか聴きに来ただけなんだ」と真面目顔で応えたという。本人が周囲の同学に話したことなので、きっと真実にちがいない。さすがは名門の御曹司、と感心した覚えがある。

現在の王府井

北京の冬は、凍てつく寒気が骨を刺す。東風市場の入り口には布団のような真綿でキルティングしたカーテンがぶら下がり、それで外気を遮断していた。重い布団を押してなかに入ると、そこは食品、雑貨、家電、衣類などの一大天下で、人民の熱気と大蒜(にんにく)臭でむせかえっていたのだ。

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