見出し画像

浦賀日誌(一) 燈明堂海岸

燈明堂海岸

自宅から歩いて三十分、浦賀湾口の燈明堂まで散歩した。無聊の慰みである。ここは近代以前、相模湾や房州沖から江戸表にむかう樽廻船など生活物資を運ぶ大小の船舶が通過したところだ。入り船、出船が頻繁にあり、岩礁もたくさん隠れた海域なので、日本で初めて、いまでいうところの燈台が設けられた。それが燈明堂だ。浦賀奉行所はこの水域を行き交うすべての船舶にお船検め(臨検)を実施し、不審船を攘った。ペリーの黒船が浦賀湾沖に現れたのもこの理由による。
燈明堂の周辺には白砂の浜がひろがり、気候の良い季節には浦賀の外から行楽の客が訪れ、浜辺にテントを張り、釜戸を立ててバーベキューなどを楽しんでいる。地元の人たちがほとんど足を向けないのは、ここが浦賀奉行所の刑場(首切り場)だったことを知っているからだろう。斬首された罪人の躯骸(むくろ)は浜辺に転がり、砂浜に鮮血が染みた。そして、それをあと片づけしたのは被差別部落の人々だった。なんともみごとに「階級的分業」が徹底されていて、歴史のなかのことながら、とてもやりきれない。江戸という時代が、決して平和なお花畑だけではなかったことの証左であろう。燈明堂は浦賀湾から東京湾に細く突き出た半島の先っぽにあり、その高見に刑場跡であることを示す碑が建っている。
衆罪如霜露、慧日能消除(衆罪は霜露の如し、慧日は能くそれを消し除く)
この碑文は、法華経の結経「観普賢菩薩行法経」の一部である。さらに、「是故応至心、懺悔六情根」(この故、至心に応じて、六情の根を懺悔すべし)というあとの句がある。香港から浦賀に引っ越してきたばかりで、不明にもまだこうした郷土の歴史を知らなかったころ、愛犬の百葉(ももは)を連れてこの辺りを散歩した。そのとき、ふだんはおとなしい犬が、激しく吠え出したのを不審に思ったことがあった。一世紀半もむかし、この美しい浜辺に滲みこんだ鮮血の残り香があったのかもしれない、と考えたのはずっとあとになってからのことである。
燈明堂の海岸には、蜂の巣みたいに穴のあいた小石が無数に打ち寄せられていた。大きいものは焼きそばパンくらい、小さいのは筆架(筆置き)ほどのものまでいろいろある。表面を爪でひっかくと、簡単に傷がついてしまう。軟らかいのだ。軟らかいから、貝などの水生動物がそこに潜り込んで寄生し、死ねばやがて生物部分は儚くも消失し、ぽっかりと空洞が残る。まるで、生きたあかしをこの軟石に仮託しているかのようだ。この軟弱な石を乳鉢ですりつぶせば、カネヨのクレンザーみたいになるかもしれない。浜に誘ってくれた地域の友人が、これは珪藻土だ、と教えてくれた。
砂浜のすなが土に代わるあたり一面にハマダイコンが自生し、咲きほこっている。可憐な花のわりに強靭な茎が、海風に揺れてゆらゆら美しい。浦賀湾の入り口には、見慣れない白ペンキを塗装した作業船のような公船が停泊していた。あとで調べてみると、三重県立水産高等学校の実習船「しろちどり」のようである。遠く紀伊の母港からはるばる遠州灘を越え、相模湾を横切り、航海士のたまごたちを乗せて、遠洋実習にやってきたのだろう。
この半島につらなる久里浜寄りの海岸線には、横須賀刑務所、横須賀少年院、自衛隊駐屯地、そして防衛省技術研究本部艦艇装備研究所などの無機質な建物が、海にむかって建っている。これらの施設で働く人たちの官舎も林立しているが、よく見ると団地のように大きな棟に数世帯しか入居していない。公務員の数が減っているわけではないので、新しく快適な住居が新築され、順次、そちらへ引っ越しているのかもしれない。
東京湾口は、出船、入り船に忙しく、海上交通が右往左往している。地盤の脆弱な砂地に生えた木の根っこが、倒れてたまるか、と蛇のようにとぐろを巻いて立っている姿がおもしろい。小さな浜辺に人影はなく、打ち寄せる波の音が、千年、万年の時を超え、こだまのように聴こえてくる。晩春の海岸線は海も空も穏やかで、沖合には巨大なコンテナ船が外洋をめざして航行してゆく。ときおり、久里浜と房総の浜金谷をむすぶ東京湾横断フェリーが半島をかすめる。白砂に咲くハマダイコンの花が、静かに往く季節を惜しんでいる。
それから数日たった午後、おなじ友人に誘われて三浦半島先端の毘沙門湾へ向った。そこの海岸には、やはり風にのって飛んできたハマダイコンの種子が地上に落ち、自生して盛んに咲いていた。一本だけ幹を折り、滲み出てきた茎液をかいでみると、鮮烈な大根の香りがする。ひょっとして、これは喰えるかもしれない。海岸は沖から吹いてくる潮風が強く、松の大樹さえも陸地側に枝を曲げて踏んばっているというのに、ハマダイコンは海の方に、つまり強風に向かって花をつけているのだ。
海岸はいま大潮で、ふだんは水面下に隠れている岩場がむき出しになり、ところどころにひじきが生えていた。それを二人で欲しいだけ刈りとった。いま、ベンランダに干してあるので、一週間もすれば乾燥するだろう。ヒジキと油揚げ、にんじんなどを醤油、砂糖、酒などで煮つければ、美味い弁当のおかずになる。
幼少時代を送った式根島の白砂の海岸や、住宅の石垣にはひじきの形に似たヒジキ花が咲いていた。こちらは深い緑の幹や肉厚の葉に、陽光に照り輝く深紅の花をつけ、その美しかった景色は、いまでも記憶のなかで鮮やかに生きている。この海岸植物の正式な名称を知らないが、島の人たちはそれをヒジキ花と呼んで大切にした。
人は自然と一体になると優しく、生き返える。自然の乏しい都会では、邪悪で、陰湿、欲張り、言葉の使い方さえも忘却した、横柄な夜郎自大に堕ちてしまうことがある。それはあたかも、哺乳類の城市である原野で、群れる野生動物の身体を糞尿や体液を介して移動し、凶暴化するウィルスに似ていて悲しい。愚かな、と思う。海風に吹かれていると、毘沙門海岸に射していた午後の斜光が翳りはじめた。帰り支度をして、それぞれの家路につく。とても穏やかな、良い午後だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?