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老残日誌(二) 李慎之と三つの国慶

李慎之と三つの国慶

李慎之(1923–2003)は、中国を代表するリベラリストだった。延安新華通信社の編輯などを経て1948年、中国共産党に入党した。1950年代は周恩来の外交秘書として活躍したが、その後、反右派闘争で「資本主義の道を歩む右派分子」として批判される。70年代後半に名誉回復し、鄧小平の訪米団に顧問として加わったこともある。80年代には中国社会科学院副院長の重責を担いながら美国(米国)研究所長を兼務し、その晩年にはリベラリズムの研究を深めた。

1949年9月30日午後、26歳の李慎之は天津でソ連文化芸術科学工作者代表団を出迎え、翌10月1日午前、列車で北京まで案内した。前門の北京駅頭には、劉少奇、周恩来、宋慶齢らまもなく建国する中華人民共和国の党・政府要人が出迎えた。建国式典に列席した外交使節にはソ連代表団以外に朝鮮人民代表団、そしてすでに解放区に入っていたイタリア共産党の中央委員(1人)らがいた。

開国の大典は、その日の午後3時から天安門楼上で挙行されることになっていた。ソ連文化代表団を北京まで案内した李慎之は職場にもどるつもりだったが、式典をひかえた北京市内はすでに戒厳状態にあって自由に移動できなかったので、そのままソ連文化代表団とともに国慶の典礼を観ることにした。

開国の大典を再現したポスターは、午後3時、毛沢東が天安門広場に整列した約30万人の軍民に向かって、「同胞の皆さん、中華人民共和国中央人民政府は、本日、成立しました!」と高らかに宣言した瞬間を描いている。
毛沢東(中央人民政府主席、人民革命軍事委員会主席)の後方には新政府の主要閣僚が序列に従って整列し、毛の演説を聞いている。第1列は左手前から朱德(同副主席、人民解放軍総司令)、劉少奇(中央人民政府副主席)、宋慶齢(同左)、李済深(同左)、張瀾(同左)、第2列目には周恩来(中央人民政府委員、政務院総理兼外相),董必武(同委員、同副総理)、郭沫若(同委員)、そして第3列目には大典を取り仕切った林伯渠(同秘書長)らの顔が見える。

開国の大典 1949年10月1日
この日、李慎之は午後から晩の10時まで天安門に仮設された西観礼台(雛壇)に座り、開国の大典の一部始終を目にした。このような栄えある閲兵式、このように美しい礼花、そして天安門広場に参集したこのように熱情あふれた数十万の群衆を未だかつて見たことがなかった、と述懐している。李慎之の脳裏にはみずからの幼少年期から革命への参加、そして解放区の延安から北京にいたる工作経験の記憶が去来していた。また10日前、第1期中国人民政治協商会議の全体会議で採択された人民英雄記念碑の「…1840年以来、犠牲になった人民英雄は永遠に不朽である」という碑文を想ったとき目頭に涙があふれ、さらにその会議の開幕挨拶で毛沢東が宣言した「中国人民は、いま立ち上がった!」の言葉を反芻して、万感胸に迫る思いがあった。

天安門ではハンガリーの国際青年祭から帰国したばかりの青年代表が北京の各大学の学生をリードして城楼前の金水橋に押しかけ、「毛主席万歳!毛主席万歳!」と連呼したとき、李慎之の感情は頂点に達した。それまで、このようなスローガンの歓呼に幾許かの疑問を抱いていたが、このとき初めてそれを素直に受け入れることができ、天安門広場を埋め尽くした数十万の群衆とともに夢中になって「毛主席万歳!」を叫んだ。

あの開国の大典の日、天安門広場に立った数十万の群衆はおなじ感情を共有した。中国はこのとき過去と決別し、半植民地、半封建の旧社会に別れを告げ、落後、貧窮、愚昧と袂を分かち、新しい社会――自由、平等、博愛の道、新民主主義の道にその一歩を踏み出した。そのあとには神聖な事業としての社会主義建設、そして毛主席がいう麗しいこと比類のない共産主義の建設が待っているのだ。

李慎之のこの感動、この熱狂は開国の大典から6年後、しかし無惨にも打ち砕かれることになる。胡風が「国民党反革命小集団の頭目」として投獄され、それから2年後には李慎之自身も毛沢東が発動した反右派闘争で「資本主義の道を歩む右派分子」として批判の矢面に立たされたからである。

右派分子とはまことに遠慮深い表現で、実際には反革命分子のことである。「革命がみずからの子弟を喰う」という残酷な現実が自分の身に降りかかってきた。あの時代、胡風や私の身に起った災難は、一連の事件の始まりにすぎなかった。

李慎之は1959年の「十年目の大慶」、そして「二十年目の大慶」(1969年)を労働改造のなかですごした。1979年の「三十年目の大慶」は挙行されず、「小慶」としてひっそりと開催された。文化大革命が終息したばかりの混乱した状況のなかで、毛沢東が辞世し、復権した鄧小平はこの年の9月30日、国家にはお祝いよりもまず先にやらなければならないことがあるとして、建国30周年の祝賀を人民大会堂における小規模な招待会(レセプション)の開催にとどめた。いわゆる「百廃待興、百業待挙」(停滞した社会を再興し、事業を振興する)である。

建国40周年の国慶 1989年10月1日
李慎之は建国40周年の国慶節を印象深く回想している。それは六四天安門虐殺事件から4ヵ月もたたないころで、その年(1989年)の5月19日、北京全市に敷かれた戒厳令も未だ解除されていなかった。北京に居住していた外国人のほとんどが避難帰国してしまい、ホテルの空室率は80~90%に達していた。建国40周年の国慶(10月1日)当日、李慎之は6月4日の弾圧に抗議して「重大な間違いを犯した」身分にもかかわらず、天安門で挙行された交歓の夕べに招待された。出席者はみなまず各自の職場に集合し、マイクロバスに乗って天安門にむかった。

普段、あまり外出しない私は、その晩、北京が鬼城(死の街)に変わり果てていることを知った。街路の灯火は暗く、通行人もほとんどいなかった。数十メートルおきに幾人かの小グループが路傍に座りこんでトランプに興じていた。同乗者が、あれは私服の公安だ、と教えてくれた。マイクロバスは労動人民文化宮から進入して天安門に着いた。そこでやっと明るい灯火を見ることができ、盛装した男女に接することができた。観礼台にはすでに多くの老同志、戦友たちが着席していた。それらの多くがたれ1人として多くを語ろうとせず、ただ黙々と祝賀の花火や天安門広場で繰り広げられているはずの歌舞に(うつろな)目をむけていた。建国から40年、まさに(政治と権力闘争の)嵐が吹き荒れためまぐるしい星霜だった。このような惨状を、40年前の開国の大典に心を躍らせた人々の幾人が果たして予想し得たであろうか。

天安門で執行された人民解放軍による学生、市民への野蛮な虐殺行為に抗議し、北京に拠点を置いていた多くの外国企業が駐在員を引き上げ、西側諸国は中共政権に対する経済制裁に踏み切った。この民主化要求運動を主導して逮捕令状が出た多くの学生が陸路や空路、海路などあらゆるルートを使って海外に逃れた。

建国50周年の国慶節 1999年10月1日
世紀末の国慶は、改革開放の果実を世界に誇り、それを自慢する大典だった。国慶の白眉は建国50周年の大閲兵で、人民解放軍は早朝暗いうちから撮影クルーを乗せた3基の大気球を天安門の空高くにあげ、準備段階から緻密に撮影して記録映画をつくった。記念大会のパレードでは「科学技術が第一の生産力である」というスローガンを派手に掲げた彩車(花車=山車)がひときわ目立った。同年11月21日、中国は有人宇宙飛行計画の初号機「神舟1号」の打ち上げに成功し 国慶に花を添えた。李慎之の回想はつづく…。

数千億元を費やした一大イベントだった。すべてが発展のためだった。ヒトラーが死に、スターリンも逝き、いま世界でこのように派手な場面を演出する国家は多くない。金正日の北朝鮮くらいだろう。ただ、あそこは国が小さく、民は窮乏しているので、北京の規模にはおよぶはずもない。ここ数日、外国メディアは「国慶の盛典、世界第一」と報道しているが、まあ、そんなところにちがいない。李慎之は世紀の祭典を激しく皮肉っているのだ。

慶典(慶祝の祭典)を観ている群衆はきっと楽しかったにちがいない。このような大舞台は人生でそんなに遭遇できないだろう。数カ月も前からパレードや集団演技を練習し、当日は早朝の暗いうちから天安門広場に立ち続けていた中学生も、きっと誇りに感じたかもしれない。子供たちや青年がもっとも好むのは永遠不敗のパッションであり、たとえどんなに苦しくとも、疲れようと、どれほど待たされようと、単調であろうと、天安門に立つことは一生の幸福なのだ 。

慶典の青空にはためくスローガン、長安街をゆっくり進む彩車に掲げられた標語、そしてTVや新聞が宣伝するあれこれは、すべて勝利の波に乗って展開した栄光の50年間であり、そこには寸毫の陰りもなく、偉大で、栄えある年月であり、当局によって正しい歴史だったとされてきた。しかし、多くの重大な政治的失態が覆い隠され、埋葬されていることもまた事実なのである 。

世界に中華人民共和国の建国を宣言するための準備段階で、毛沢東は中国共産党の創立28周年を記念して『人民民主独裁について』という論文を書いている。その論文の中段で「きみたちは独裁だ。愛すべき先生方よ、お言葉どおりで、われわれはまったくそのとおりなのだ」という有名な一句がある。李慎之はそれを初めて読んだとき、少なからぬ違和感に襲われたが、すぐにこれは毛主席一流の奥深い比喩でマルクス・レーニン主義の原理を表したにすぎない、と思い直した。それから7年後、ソ連共産党の第20回党大会が開催されたあとでイタリア社会党のピエトロ・ネンニ書記長が提出した「ひとつの階級の独裁は必然的に一党独裁を招き、一党独裁は個人独裁を引き起こす」という公式に接した。その後、折に触れて西柏坡 時代に毛沢東が発した指示「勝利するには北京を打ち、龍庭を一掃して天下をとらなくてはならない」という言葉を思い出し、あるいは「私はマルクスに秦の始皇帝を足したものだ」という毛の発言を聞いた。このとき、ネンニや毛の言葉には通底する韻律があり、すなわちアクトン卿が喝破した「権力は人を腐らせ、絶対権力は絶対に腐敗する」という言葉の意味を悟った、と述懐している。

李慎之は、若き日の開国の大典に出席したときには未だこの言葉の意味を理解できず、また想像すらしていなかった。

「開国の大典」画の政治的変遷
開国の大典は、1953年に董希文によって油絵(縦230×405cm)に描かれたものが革命宣伝画として大量に印刷され、市井に流布した。1950~70年代、中国は幾度もの路線闘争、権力闘争を経験し、それによって絵に登場する人物の移動があった。

第1版には前列右端に高崗(中央人民政府副主席)がいた。ところが1954年、高崗と饒漱石が反党集団として粛清され、中国革命博物館の要請により董希文は原画から高崗を塗りつぶして抹殺した。これが第2版である。
第3版は文化大革命で劉少奇(1959年から国家主席)が「資本主義の道を歩む実権派」として打倒されると、1968年、董希文は原画の第2版から劉少奇を抹殺するよう当局から指示され、そこに董必武を移動させた。そして1970年には江青(毛沢東夫人)の命令で、1960年に物故していた林伯渠をも原画から抹殺した。林が絵の中に塗りつぶされた理由は、延安時代、江青と毛沢東の結婚に反対した、というただそれだけの理由からだった。

1976年、江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人組が逮捕され、文化大革命に対する評価が定まると、1950年代まで遡って不当に粛清、批判された大量の幹部らの名誉回復が行われ、これにともない「開国の大典」もやっとオリジナルに復することになる。これが第4版である。このときすでに作者の董希文は重篤な癌を得てこの世になく、かわりに靳尚誼が原画に忠実に複製した。オリジナルは幾度もの書き直しを経ていたため、これ以上修正することがかなわなかったのである。

現代中国ではこの「開国の大典」の油絵とおなじように、政府要人が並んで撮った集合写真でさえ修正され、本来そこに存在した人物が忽然と抹殺されることは珍しくない。生身の政敵ばかりか、すでに写真や絵のなかにだけしか存在しない人物に対する粛清も行われるのだ。中国の路線闘争や権力闘争はそれほどに醜悪、執拗で、権力にとって好ましくない歴史はいとも簡単に修正され、捏造されてきた。専政独裁政権の所以であり、その残虐性にほかならない。

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