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浦賀日誌(七) 老いを養う

老いを養う

散歩道で昇り降りする階段の斜面に一本だけ立つ山茶花が咲いた。今年も、まもなく冬に突入する。椿と山茶花はよく似ている。どう違うのだろうか。故郷は椿の名産地で、子供のころからその堅い幹や花によく親しんできた。晩冬から早春にかけて、艶やかな花が咲く。おやつなどの習慣がなかった島嶼の貧しい生活空間に暮らしたので、路傍から手のとどく椿の枝を引き寄せ、その花の蜜を吸って遊んだ。花粉が濃い黄色なので、口のまわりもうっすらと黄変する。しばらく、特有の心地よい香りが唇の周辺を漂う。その姿は、さぞ可愛い少年だったにちがいない。

山茶花

散歩道の階段は初秋に彼岸花が咲きほこり、それが終わると急斜面に一本だけ佇立する山茶花が開く。季節はめぐり、また一年たったのだ、と思う。この風景をみつづけて、もう、二十年くらいになる。そして、五年ほど前から、彼岸花と山茶花は老いてゆくことの証だと感じるようになった。階段は残酷だ。二十年前、ここに棲みはじめたころはまだ若く、身体も元気で、二百段を一気に駆け上がっても平気だった。いまでも階段を辛いとは思わないが、いつのころからか駆け上がることは叶わなくなり、一段いちだんゆっくり踏みしめて登るようになった。夏の暑い晩などには途中の踊り場に設置されたベンチに腰掛け、眼の前に展開する暗い藪を見て楽しんだりする。

園丁師が書いたものを読むと、椿は花のまま「ポトリ」と地面に落ち、山茶花は花弁を風のゆらぎにまかせて静かに散乱させ、はらはらと落下するらしい。そういえば、子供のころ、蜜を吸って口のまわりに黄色い花粉をつけた少年は、その落下音を聴いたことがある。「ポトリ」というよりは、「ぼとり」と表現すべき鈍重な音が聴こえた。椿の花がふくよかで、重量感があるからにちがいない。「ポトリ」と「ぼとり」は清音と濁音の違いにすぎないが、その音声学的なニュアンスの差は大きい。いずれにしても、老いて、花弁が黒ずみはじめた花の最後の姿にふさわしい。

山茶花4

老いを養う、とは、なんとも響きのよい言葉ではないか。「養老」ではなく、「老いを養う」のだ。「養老」は受動的なニュアンスが濃く、たとえば、養老院とか介護施設などの情景が浮かんできて、あまり好きではない。老境は、晴れたら歩いて身辺の風景を眺め、雨が降り、風が吹けば、好きな本などを開いて、静かに老いを養うのがよい。

人は、やがて果ててゆく。生きとし生けるもの、やがて必衰する。そのとき、「ぼとり」と崩れ落ちるのか、それとも「はらはら」と散って地に還るのか。それは、その人が送ってきた人生もようや属性の違いで決まるのだろう。もし選ぶことができるのなら、微風に乗ってはらはらと逝きたい。これは、もう、譲ることのできない美学の問題なのである。

E-300 +G-Zuiko Auto-S 50mm 1 : 1.4

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