神津島 神社旅(二)
物忌奈命神社
神津島には前浜集落を中心に与種、疱瘡、秋葉など多数の守護神、氏神、鎮守神、産土神、地主神が小さな祠や社殿としていまも存在している。これに対して、神々の中核は北部の長浜にある噴火造山神としての阿波咩命(阿波命/阿波比咩命=あわのめのみこと)神社と、それに連なる物忌奈命(ものいみなのみこと)神社、そして日向神社の三社だろう。阿波咩命は三島大社本后で、物忌奈命(タタナイ王子)はその長子、日向神社の祭神タフタイ王子は次子であろう。物忌奈命神社は島西岸に広がる前浜の丘に、日向神社は東岸の多幸湾に鎮座する。いずれも島民が集住する地勢にあり、島の人々に三嶋神信仰を浸透させる必要から建立されたものにちがいない。
三嶋神信仰の拠点は伊豆諸島と伊豆半島で、布教の中心は三宅島にあった。神津島は諸島のちょうど真ん中あたりに位置したことから、島の焼きだし(噴火による造島・造山=諸島における天地創造)後、各島を司る三嶋神の神々が集まって水わけの儀を催した。島名の「神津」には、「神々が寄り集まった津(湊)」という意味が込められているのだろう。
林田憲明『火山島の神話』(未知谷、二〇一四年)によれば、神津島は中世を通じ信仰の拠点として南伊豆や諸島民の崇敬を集めていた。とくに伊豆半島の突端は、歴代、神津島天上山の大噴火にともない、避難民が大挙してやってきたこともあり、この島とは強い縁で結ばれてきた。天上山の噴火後、『延喜式神明式』では神津島の二神を名神大社に列している。この二神とは、すなわち阿波咩命とその長子物忌奈命のことであろう。
物忌奈神社の社務所や本殿は、平成十二(二〇〇〇)年に発生した新島・神津島近海地震で倒壊した。現在の建物は地震後に再建したものである。その崩れた本殿から「集島(づしまさだめ)大明神」の扁額が発見されている。神話に従えば、神々が水分けの儀でこの島に寄り集まった際、物忌奈命がいかに中心になって働いたことかが、この扁額に記された五文字からわかるのである。
三嶋神の神々による大島、利島、新島、三宅島、御蔵島、八丈島、八丈小島、そして神津島などへの水の分配については、すでに利島の稿に記したので、ここでは繰り返さない。前浜の高みに登ると、眼前には斜面に張り付くように展開する小さな集落と、その先に広がる太平洋の海原がよく見える。沖合には恩馳嶼(無人島)の島影がコバルト色のたゆとう海面に美しいシルエットをつくっている。
X-E1+NOKTON 40mm 1.1.4
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