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老残日誌(十九)

北京語言学院 学十楼

歴史の現場に居合わせるというのは、そこに立っていた人の才能だといわれることがある。それを真っ向から否定するつもりはないが、多分に偶然性による要素が多いと思う。それもその人の能力とあえていうのなら、きっとそれは無意識下における才能みたいなものではないかと思う。言葉を換えて表現すれば、いわゆる「勘」とか、あるいは動物的な「嗅覚」みたいなものである。「勘」も「嗅覚」もある一定の経験とか知識によって裏打ちされる場合もあるが、そうでないことも多い。

表紙がもう変色してしまった古い日記帳によれば、中国民用航空のトライデントHS一二一型機は、一九七八年九月二十七日(木)午後二時四十分、開港まもない成田国際空港を離陸した。この半年前の三月二十六日、筆者の大学時代の仲間が三里塚芝山連合空港反対同盟に加わって開港まぢかの新東京国際空港の管制塔を占拠し、管制設備などを破壊した。このため、成田空港の開港は二カ月間ほど遅れ、五月二十日になってやっと一番機が飛び立った。いまでは想像することすら困難だが、大学生が政治や社会に立ち向かってゆくニッチがそこいら辺にたくさん存在した時代だった。

成田空港を離陸した中国民航機はツバメのように一直線に飛翔して鹿児島上空に到達すると、そこで西に進路をとって上海へ向かい、そこからさらに北進し、晩の八時すぎ、北京空港に到着した。当時、まだ中国と韓国が外交関係を結んでいなかったので、日本と中国のあいだを飛行する航空機は朝鮮半島を突っきることができず、いったん鹿児島上空まで迂回して上海に至り、大きく右旋回して北に進路をとり北京へ向かった。飛行時間は六時間以上を要した。機内では不細工な紺色の上着に、おなじく紺のズボンを穿いた客室乗務員が、飯場で使うような大きなアルマイトの薬缶をかかえて安いジャスミン茶のサービスをしてくれた。

語言学院 学十楼

あのころの北京空港は土色をした古い建物がひとつだけぽつんと建ち、小さく、暗かった。この建物は、いまでも空港の端っこにひっそり保存されている。着陸したトライデント機の丸窓からは、空港建物の屋根に架かる赤く電飾された「北京」の二文字がぼんやりと見えた。それは筆者が眼の当たりにした初めての「革命中国」だった。東欧圏のチェコスロバキアかハンガリーあたりからバーター貿易で輸入した出迎えの旧式バスでゴトゴトと真っ暗な機場路を走り、北京の北郊外を西に抜け、北京語言学院の学十楼(留学生男子寮)に着いたのは、もう深夜十一時をまわっていた。舎監から布団一組と魔法ビン、そして金魚の絵柄がかわいいホーロー引きの洗面器を支給されたのを覚えている。筆者の北京生活は、この日、ここから始まった。

小峰くん(黒白)

〔写真〕買ったばかりの中山服姿が凛々しい小嶺くん(頤和園)

翌日、さっそく親しくなった沖縄出身の小嶺くん(肝臓ガンを得て物故)と五道口百貨商場で紺色の木綿地の人民服、黒の布靴、緑色の肩掛け人民包(バッグ)、そして当面の生活に必要な雑貨のあれこれを買った。必要なものをだいたい揃えると、わたしは、これで社会主義建設に参加できる、と胸の高鳴りをおさえきれなかった。北京の秋は快適だ。空はどこまでも抜けるように青く澄んで、高い。ああ、これこそ老北京たちが自慢する「秋高気爽」なのかも知れないと思った。

五道口商場

やがて、季節は肌寒い晩秋から初冬へとうつってゆく。年末には中共第十一期三中全会が開かれ、対外開放政策(当時、まだ「改革開放」という言葉は生まれていなかった)への転換が決議された。中国が経済面で長かった西側諸国への鎖国政策と決別し、同時に、社会主義の理念を捨てた瞬間でもあった。対外開放政策で工業、農業、国防、科学技術を近代化するといういわゆる「四つの現代化」が本格的に始動し、北京の街には停滞から一気に改革の機運が高まってゆく。毎週末、北京市内にある大専院校(大学などの高等教育期間)の礼堂では「舞会」が挙行され、青年男女は競って舞庁に押しかけ、ちょっと時代遅れのディスコ・ミュージックなどにあわせて真冬の酷寒の夕べを踊り狂い、新時代の気分にひたった。そんな季節のうつろいのなかで、やがて「北京の春」とよばれた民主化運動が起こり、西単の壁には無数の大字報が貼りだされ、青い空とは裏腹に強権で逼塞する社会状況を恨む多くの人民が中国共産党=国家政権に政治の民主化要求を突きつけた。

民主の壁

筆者は仲の良かった中国人の同学と重い綿大衣(綿入れの外套)と毛皮の防寒帽で完全武装し、永久牌の自転車でシベリア方面から吹いてくる寒風のなかを疾走して西単まで大字報を見にいった。旧正月を迎えるころ、壁に踊る民主言論に恐怖した中共党=国家は五つ目の現代化(政治の民主化)を求めた魏京生を監獄に送り、つかの間の「北京の春」はその果実を結ぶことなく葬りさられたのだった。

それはいまから思えば、共産党一党独裁の全体主義国家が経済だけは国内外に門戸を開放するという経済政策をスタートさせるための号令で、政治改革は進めないというハードな社会状況を継続させる宣言でもあったのである。三中全会は一九七五年の第四期全国人民代表大会で周恩来が再提案した「四つの現代化」の力強い追い風となり、ここに中国経済が高度成長するための肥沃な土壌が用意された。

一九七八年に魏京生が主張した中国を民主化するための「五つ目の近代化」はその後も一向に実現されることなく、六四・天安門虐殺事件で状況はさらに悪化し、中共党=国家による一党独裁政権は現在も強権で人民の口を固く塞ぎ、民主化を求める行動を容赦なく弾圧している。筆者も含め世界中からやってきた留学同期生の多くは中国の暗く疲弊した現実にまもなく失望し、毎週末に北京の各所で開かれた「舞会」でウサを晴らした。魏京生は逮捕されたが三中全会の薬効は著しく、社会は経済分野で蠕動を始め、なにかが変わるかも知れないと期待した触覚の敏感な学生や庶民たちは、毎週末の晩に各所で挙行される「舞会」を狂ったように踊りあかした。

語言のクラスメート

〔写真〕前列右端は六四・天安門虐殺事件で逮捕令状が出され、フランスに 逃れた許天芳。台湾海峡から大陸に向けて民主の電波を出した民主女神号の事務局長を務めた。

北京語言学院の学十楼には蒸気を通した暖房があり、打水房(水汲み部屋)にゆけば熱湯だって汲むことができた。酷寒の真冬でも学生寮のなかは春のように暖かく快適で、外に凍てつく氷天雪地に悩まされることはなかった。しかしこの年の冬、わたくしたちは、みな、中南海(北京の政治の中心)から吹いてくる厳しい政治の寒風に襲われ、同学たちは男女、国籍を問わず、首都の民主の行方に不安を感じていたのである。


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