見出し画像

老残日誌(十五)

「辛い」について

唐辛子は辛い。生姜も辛い。酒には辛口がある。そして、地域によっては、塩も「塩っぱい」とか「塩辛い」ではなく、ただ単に「辛い」と表現する場合がある。しかし、その辛さは微妙に異なり、ただ「辛い」の二文字を使うだけではとうてい表現しきれない奥深さがあるようだ。ためしに『日本国語大辞典』第3巻(小学館、一九七三年)を引いてみると見出し語は「からい」(辛・苛・鹹)だが、それらの漢字について約半頁にわたり四種類の解釈が載っている。

その第一は、「唐辛子、生薑、山葵、山椒、胡椒など舌や口をぴりぴり刺激するような感じのあるさま」とある。典故としては古今和歌六朝の六・草から「みな月の河原におもふやほ蓼のからしや人に逢えぬ心は」をあげている。それは、恋するあの人に逢えないときの心は、六月の川原に生える八穂蓼の葉が辛いように切ない、という意味であろう。散歩道で路傍に生えた蓼の葉や茎を摘んでちょっと噛んでみると口中に野生的な辛味が広がり、それを嫌う人がいる。そこから、「蓼食う虫も好きずき」という格言が生まれたにちがいない。

第二に、塩の味のあるさま、をいう。万葉集「須磨人の海辺常然らずは焼く塩の可良吉(からき)恋をも吾はするかも」は、須磨人が浜で焼く塩のように、吾は辛い恋でもするのだ、と、塩っぱい想いを塩の辛さに仮託する。「辛い」ことを「可良吉」と表現している。漢語的に解釈すれば、これには「良吉」である可きこと、という意味があり、決して悪いことを謂っているわけではない。「辛(から)い」は「辛(つら)い」とおなじ表現を使っているので、この時代にはそれらの深淵が「良吉」で通底していたことを示している。万葉人は、辛(つら)いことも前向きにとらえていたのだろう。

第三は、酸味の強いさまも「辛い」という意味の範疇に入れてある。『日本国語大辞典』が引いた『新撰字鏡』には「醋:酢也 酸也 加良之又須之」とある。「醋」、すなわち「酸っぱい」ことを「酢也」、 「酸也」、「加良之(からし)」、 そしてまた、「須之(すし)」と説明する。ここから「須之」が「酸也」あるいは「酸之」と同義であることは明らかで、握り鮨(寿司)が「須之」や「酸之」などから派生してきたことが、おぼろげながら理解できよう。そこで大槻文彦を引いてみると、はたして「すし(鮨)」の条に「酸シノ義、鮨」とある。蛇の足だが、「すし」は魚の「旨」味をみごとに引き出した食物なので、「寿司」よりは「鮨」と表現するのがより原義に近いと思う。

第四は、酒気の強いさまで、甘味の少ない芳醇な良酒の味にいう。たとえば、清酒の「辛口」は、ここからきているのだろう。この辞書の編者は『日本書記』の景行十二年十二月から「多に醇(からき)酒を設けて、己がかそに飲ま令む」を引いている。手元の黒板勝美・国史大系編修會『日本書紀』(吉川弘文館、昭和四十六年)で原文を確かめてみると「以多設醇酒令飲己父」(醇き酒を充分に用意して父親に飲ませる)となっており、ここでは「醇」を「辛い」意味に使っている。芳醇、つまり良酒という意味なのだ。ここに出てくる父親とはクマソ、すなわち熊襲梟師のことで、酒を飲ませたのはその娘、市乾鹿文(いちふかや)で、熊襲が酔って寝てしまうと弓を切って抵抗できないようにし、そこへ打ち合わせ通り高屋宮(たかやのみや=景行天皇)の臣下が押しかけて誅殺する、という娘が父親を屠るおどろおどろしい物語だ。『日本書紀』は「醇」を「からい」と読ませ、それは芳醇であることを意味している。

唐辛子

中国に「姜是老的辣、茶是後来釅」(生姜は古いのが辛く、茶はながく淹れるほどに濃くなる)という「俗語」が流布している。この場合の「俗語」に卑俗な陰影は感じられず、あくまでも市井で愛されるこなれた言葉のことを指していよう。「釅」の部首になる「酉」は「樽や酒壺」の意味で、そこにながく熟成させると芳醇になる。良い意味で使われているのだ。

日本では「からい」ことを「辛い」と書き、中国では「辣」と表現する。「辛辣」という言葉の二文字を分けあって採用していて、まことに興味深い。部首としての「辛」に「束」を加えた字が「辣」である。白川静によれば「束」は「剌」の省文で、「剌」は「烈」に通じ、「激しい」意とある。許慎(漢)・段玉裁(清)『説文解字注』や商務印書館『古代漢語詞典』なども「厳酷、刻毒」と説明しているので、「辣」は「辛」よりも一段高い辛さを表す言葉であることがわかる。おなじ「辛辣」という二文字の言葉から、日本ではなぜ「辛」が採用され、中国では「辣」が選ばれたのか。それは、両国の気候風土やそこに育まれた唐辛子、生薑、山葵、山椒、胡椒の味の濃淡、あるいは暮らす人々の属性などを比べてみれば、自明のことだろう。(写真トップ:時事通信、文中:湖南省張家界、筆者撮影)

X100


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?