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老残日誌(二十四) 蘆花と上海・南洋航路

蘆花と上海・南洋航路

世田谷の蘆花公園は好きで、ときどき訪れる。きっと園内が縄張りなのだろう、品のよい野良猫が西陽をあびてくつろいでいた。せっかくだから顔見知りになり、リアルな言葉は通じなかったけれど、さまざまに気持ちを交わすことができた。筆者は、通りすがりの犬猫に好かれる。それはきっと、わたしも彼らを好きだから、という単純な理由によるのかもしれない。

芦花公園の猫

蘆花は号、本名は健次郎だ。紀行や探検記が好きで、先日、徳富健次郎の『巡礼紀行』をみつけたときは嬉しかった。明治三十九(一九〇六)年、不惑を迎えたころの作品らしい。同志社を退学し、熊本のメソジスト教会で受洗したキリスト者で、横浜から欧州航路の汽船に乗って洋行し、パレスチナを巡礼したあと、ヤスナヤ・ポリヤナにトルストイを訪ね、シベリヤ経由で帰国したときの記録である。むかしの人の旅行は、なんと広域で、贅沢なことだろう。

蘆花が巡礼の旅に出たのは、一九〇六年四月四日のことだった。横浜から日本郵船の備後丸に乗船し、翌五日、神戸に寄港、七日に瀬戸の内海を門司に向かった。そして、九日には門司を抜錨し、いよいよ日本を離れる。蘆花は巡礼紀行に、「玄海風浪あり、六千餘トンの揺籃をゆする海の力よ。身はただ赤子のごとく船房に卧すのみ」と記している。関門海峡の左手に八幡の皿倉山などを認め、玄界灘に出たところで、さっそく波浪に出くわしたのだろう。

上海航路の時代

手元に、岡林隆敏『上海航路の時代』(長崎文献社、二〇〇六年)がある。長崎を訪れた際、現地で見つけたものだ。その表紙絵は、大正から終戦直前まで存在した長崎〜上海航路(一九二三〜一九四三)、すなわち日華連絡船のデッキでくつろぐ婦人を描いたものである。なんとも優雅な往時の感覚が描き出され、こんな時代に生きてみたかった、と思う。蘆花が門司から上海に渡ったのは一九〇六年のことだったので、長崎~上海航路が開かれたさらに十七年以上も前のことだが、船上も、上海の街路も、おおよその雰囲気は似かよったものだったにちがいない。蘆花が乗った汽船は日本郵船が英国に発注し、一八九七(明治三十)年に進水した備後丸で、横浜、神戸、門司、上海、シンガポール、ピナン、コロンボ、紅海、スエズ運河、ポートサイド、地中海、ジブラルタル海峡、英国、フランスを経由してベルギーまでの航路を二カ月と幾日かで繋いだ。蘆花はポートサイドで下船し、そこから陸路で巡礼の旅を始めている。

郵政総局から蘇州河、黄浦江を望む

門司を出帆して玄界灘の風浪に弄ばれた備後丸は、十一日午後、上海匯山碼頭に投錨する。門司から上海まで、二日間を要したことがわかる。九州と上海は近い。かつては、長崎県上海市と呼ばれたこともあった。『上海航路の時代』には、幾葉もの興味深い絵葉書が掲載してある。おそらく裏白渡橋(四川路橋)を虹口側に渡ったところにある上海郵政総局の高層階から描いた(写した)らしいアングルだ。蘇州河を鳥瞰し、河岸には無数のサンパンが舫っている。ひと筋だけ黄浦江寄りの咋浦路にかかる二白渡橋、そしてブロードウェイ・マンション(上海大廈)直下の外白渡橋(ガーデン・ブリッジ)、さらにその向こうには黄浦江が幾多の外国船を浮かべてうららかである。蘇州河を南北に結ぶ渡橋の「裏白」、「二白」、「外白」というそれぞれ二文字の内から外に向かう順列の言語学的なコントラストが秀逸だ。備後丸が着いたのは、虹口の提籃橋から数百メートル降った黄浦江北岸にあった日本郵船の匯山碼頭である。絵葉書は、いま、まさに纜(とも綱)を解いてそこを離れ、長崎へ向かおうとする上海丸の勇姿だ。

匯山碼頭 上海丸出港

蘆花の乗船した備後丸は、十三日午後、上海を抜錨し、香港へ向かった。「十四日、霧あり、汽笛を鳴らして行く。十五日、雷、電、夕立、熱帯近し」と少しずつ華南の風情が濃くなる。そして、十六日午前、香港島と九龍(カオルーン)を分ける狭い海峡のビクトリア・ハーバーに駛進した。蘆花は、香港の湿度を「まさにわが梅雨の天気、不快」と嘆く。六月、あの南西モンスーンの舌がもたらすべっとりとした湿気と高温には、たれもが参ってしまうだろう。

十八日朝、香港を抜錨して一路シンガポールへ。船中では、十九日より浴衣に着替え、南洋の酷湿、酷暑に堪える。「二十一日、夜ふけて船首甲板に出ず。恐ろしき星の数なり。船は徐(おもむろ)に黒き海を分けて南(みなみ)し、燐波、紫陽花のごとく両舷に湧く」とある。備後丸は、南海に特有の夜光虫、あるいは発光性のプランクトンの群に包囲されたのであろう。二十三日午前十一時、シンガポールに投錨した。五日間のちょっと長い南洋航路だった。

行程略図

二十五日、シンガポール解纜。マラッカ海峡を北進し、二十七日午前、ピナン(ペナン)着。左船窓の遠くに馬六甲(マラッカ)の素朴なカンポン風景を眺め、左手にメダンのディープなスマトラ的雰囲気を感じたころ、バタワースの対岸に浮かぶコロニアルな島嶼ピナンの港に錨をおろした。ここまでは、筆者も船で旅したことがある。その先の海路は、残念ながら知らない。

巡礼紀行

近代から現代への思潮を繋いだ健次郎(蘆花)の兄、ジャーナリストで思想家の猪一郎(蘇峰)も、また、佳い。猪一郎は幾多の散文の名編を残し、筆者のふるさと伊豆大島をも訪れて『大島遊記』を書いている。これについては、いつか詳しく検討してみたい。蘆花公園の写真を撮ったのは、もう何年も前のことだ。冬の一日、園内には樹間から午後の斜光が射していた。顔見知りになった野良猫は、いまも元気にしているだろうか。健勝なら、きっと、筆者とおなじようにずいぶんな老猫になっていることだろう。

500C/M+Planar 80mm 1:2.8 

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