#215『金子みすゞ童話集』

 あんまり嫉妬はしない方だと思う。凄い人、尊敬する人、憧れる人は沢山いる。でも「ああ、こんなふうになりたかった」という人はいない。人は人だし、必ずしも上手い人、有名な人、有力な人だからと言って、自分の前を歩いているとは限らない。精神や理解力ではこっちの方が上だ、と思うことだってある。要するに人は人、である。
 しかしそんな僕にも多分一人だけ「こんな心がほしかった」と悔しいような思いになる人がいる。金子みすゞである。その心は余りにも清らかで深く、そして高く遠く深い所を見ている。地上に舞い降りた天使の心である。
 金子みすゞの心には悲しみと喜び、賢者の達観と子供っぽい甘え、生の充実と死の予感が詰まっている。言うなれば途方もなく広い音域をカヴァーする魂のパイプオルガンである。その音の重なり合いを聴くと、人間でいることが悲しくなる。否定的な意味での悲しみではなく、切なさと寂しさと、本来は十二分に感じられるはずの愛の喜びが混ざりあったような悲しみを覚えるのである。

 金子みすゞは、一方で何かが起きている時に、他方で引き換えに起きているであろうこと、外形の裏側にあるもう一つの出来事、当たり前の中に潜んでいる不思議、そして誰をも賞罰しない平等公平の愛と赦し(それに伴う痛みと憐れみ)をしばしば描いている。
 昔話では、正直者の爺さんと悪者の爺さんは、結末においてそれぞれ瘤0個と2個になる。金子みすゞはそれに続けて、

わたしのこぶがついたとは
やれやれ、ほんとにお気の毒
も一度、いっしょにまいりましょ。
山から出てきた二人づれ
正直爺さんこぶ一つ
意地悪爺さんこぶひとつ
二人でにこにこ笑ってた

 彼女の世界では、誰も悪い人はいないのである。悪いことをしたとしても、それは悪気あってのことではない。みんな、神様仏様に愛されている子供なのだから、という深い思いが伝わってくる。
 一方の出来事の他方で起きていることへの洞察と思慮もまた、優しさに満ちている。

誰にも言わずにおきましょう
朝のお庭のすみっこで
花がほろりと泣いたこと
もしも噂がひろがって
蜂のお耳へはいったら
悪いことでもしたように
蜜をかえしに行くでしょう

 昔話的思考なら、蜜を返してもらってめでたし、となる。「めでたし」という結末は「リセット」と基本的に同義だと思う。「こうして悪者には罰が当たって、盗まれたものは返ってきました」というような。
 でも取った方も悪気はないし、もし蜜を返したら今度は蜂が泣く番だ。仕方のないこと、それを金子みすゞはただ静かな思いやりの気持ちで見詰めている。誰が良いとか悪いとか、どうしたら問題だとか解決だとか、そういうことのはるか上の次元にある感情は、憐れみの心だと思う。
 次の歌も好きである。部分的に抜粋すると、「あたしが女王さまなら」と空想して、おふれを出す。

「私の国に棲むものは
子供ひとりにお留守居を
させとくことはなりません」
そしたら今日の私のように
さびしい子供はいないでしょう
それからつぎに書くことは
「私の国に棲むものは
私の毬より大きな毬を
誰も持つことできません」
そしたら私も大きな毬が
ほしくなくなることでしょう

 私はとても微笑ましい気持ちでこの詩を読み終えた。子供の素直な欲の発露が何とも言えず可愛らしいのである。
 子供は嘆いている間にも欲深く何かを欲しがっている。大人のように意地汚かったり混乱しているのではなく、子供の心は爽やかにいつも二層に分かれていて、自由自在に行ったり来たり、両立させたりすることができる。それが「囚われない」ということなのだと思う。
 金子みすゞの素晴らしさは、こういう二面性にもよく表れていると思う。神を讃える歌、世を儚む詩、子供の心に寄り添う童謡、そういうもの「だけ」なら、素晴らしいものを書ける人はたくさんいる。しかし金子みすゞは生と死、老いと幼さ、形あるものとないもの、喜びと悲しみを自由に行き来し、通い合わせることのできる、驚くべき心の柔軟性を持っていた。彼女はそれを計画的にではなく、心という一つの球体を様々な角度から眺めるという、ただ純粋な営みを通してごく自然と成し遂げた。
 読むたびに心の目を開かされ、深みに導かれ、自分の見ている風景の貧しさを感じ、心を新たに生き直したくなる。同時に、この女性の美しすぎた心とその生涯の苦しみに寄り添いたい気持ちになるのである。

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