光差す記憶
昔、教会に通っていた期間がある。
小学生の時で、あんまり何もわかっていないまま、友達に誘われて通っていた。
その子は家がみなクリスチャンで、家族ぐるみで熱心に活動していたのが子供の私には羨ましかった。
うちは家族ぐるみで何かに熱心に取り組むということがなかったからだ。よくあるような簡単な理由だ。
自分は何もわかっていないなりに、その教会のことが好ましかった。その教会に通う人々のコミュニティに通底している根拠のない(彼らにとっての根拠はもちろん主の存在であるのでこの言い方は正しくないかもしれない)善意が、自治が、幼いなりにとても尊いもののように感じていた。自分にとって"根拠のなさ"がその尊さをかえって助長しているような気がした。
公共の場で泣いている大人とそれに寄り添う大人を見たことがあるだろうか。
私は教会に行くまではなかった。でも教会にはそういう光景が珍しくなくて、その場にいる人々は隣人への愛をもってそれを慈しみ、日常としていた。依存のない、さっぱりとした丁寧な支え合いだった。
何かを懺悔と祈りによって赦されている人や片手に分厚い楽譜を持って讃美歌を涙ながらに歌う人や子供達のために昼食を作り振る舞う人の、その全てが主による奇跡であるというのなら、それは存在するのだろうとなんとなく思った。緩やかにでもそう思わせる力があった。
10歳になると教会の子供たちはバプテスマ(洗礼)を受けた。自分は実のところ教会に通っているだけで特別の信仰があるわけではなかったのでバプテスマは受けなかった。
自分以外の同年代の子供たちは、みな親世代やさらにその上の世代の人たちも教会にいる、そこに属していくことに違和感のない人間だった。
だから教会の人々の多くが顔馴染みになっていたとはいえ、自分だけがバプテスマを受けないことには、疎外感と少しの後ろめたさはありつつ、そうだろうな、という気持ちがあった。母にも「それはやめておきなさい」と言われていたし。
確たる信仰がなかったとはいえ、自分だけが神(とそれを信じる人々)の承認を受けていない、というような疎外感は私の足を教会からゆっくりと遠のけていくのに十分な理由であった。そして子供の頃から私はとても朝が弱かった。朝九時から始まるプリキュアも見られないほどのねぼすけは礼拝には行けないのだ。
当然の如く、教会では新しく来た人は盛大に歓迎され、子供たちは「大事なお友だちは教会に誘ってあげて。イエス様のすばらしさを教えてあげて」と教えられる。いっしょに御国へ行くためだ。
「でも神様の話とか友達にするのは恥ずかしいから教会には誘えない」と友人は一度言っていた。正直で良いなと思った。
きっと彼らのそれぞれにそういった気持ちがありながらもなお、子供たちは神様というものを、子供なりのコミュニケーションのなかで多少茶化しながらも、大きな存在として受け入れていっていたように思う。
"子供の礼拝"の後には"大人の礼拝"があった。教会に連れて行ってくれていた友人一家はそう呼んでいたので、自分もそう呼んでいた。
"子供の礼拝"は、聖書の話を子供でもわかりやすいようにまとめたプリントに沿って上級生の人に説明してもらったり、お菓子を食べたり、日々を聖書に従って行動したりするように諭されたり、最近の出来事についてお祈りをしたり、子供用の讃美歌を歌ったり、みんなでレクをしたりする。季節のイベントなども定期的に開催されていて、私は毎回ではないけれどそれにぎこちなく参加していた。
今思うと自分は場にうまく馴染めてはいなかったように思う。友人には「そうでもなかったけど」と言われるだろうが。ただ笑顔で、何にも逆らわず、誘ってくれた友人のそばになるべくいた。
礼拝中はことあるたびにお祈りの時間が設けられる。子供の礼拝の最後のお祈りは、先生が子供達の中から代表者を指名する。
そして「何か祈ってほしいことある人いる?」という問いかけが全体になされるので、祈っておきたいことがある人は挙手制で内容を伝え、その後代表者がそれを総括しながら口頭で祈りの言葉を言うという形式だった。
大抵は「週末に控えたなんらかの大会でよい結果を出せるようにお守りいただきたい」というような内容が多かった。
特に挙手はしなかったものの、私はそれとは別に個人的に外で暮らす猫のことばかり祈っていた。
祈りの前にはグループに分かれてディスカッションをして日々のことを書いたプリントを見せあったりするのだが、そこで先生は今回はこの子にお祈りをしてもらおう、というようなことをある程度決め、場合によっては共有していた。
自分はとても緊張屋なので、祈る担当に突然選ばれないか不安だったが、自分はいつまで経っても選ばれないのだろうな、という投げやりな気持ちも同時に抱いていた。
コミュニティで信頼関係を築くのが苦手なのはこの時からであったが、それが私と、いるのかわからない神様と二人きりのようでよかった。
お祈りについて思い出すと必ずこのこともセットで思い出すので、完全に蛇足ではあるが記しておく。
自分は寒い季節になると喘息のような咳がひっきりなしに出る体質だ。冬場のお祈りの最中に咳き込みそうになったとき、この静謐で皆が友人の祈りのことばに耳を澄ましている場で咳を響かせるのがどうしても怖くて、毎回誤魔化しながら小さい咳払いを繰り返してなんとかやり過ごしていた。
しかし、咳払いだけでは肺の違和感を逃がせないことが一度あった。肺の中の息がなくなるまで咳をしたい。自分がとった行動は「気合いで耐える」だ。深く息をすると誤って"糸口"を掴んでしまいそうで、呼吸は次第に浅くなった。陸にいながら溺れているみたいだった。冷や汗をかきながら、お祈りなんてちっとも聞かずに、はやくお祈りが終わりますように、と祈った。畢竟はそこで咳き込まずに済んで私の幼い体面は無事に保たれたのだが、なんだか無駄に死ぬような思いをした。
神に近い場所で死にかけた記憶だ。
あと、みことばを覚えるのは好きだった。月毎に、聖書から抜き出した一編である「みことば」が決められていた。みことばは色々な大人が色々な理由で決めていたのだが、大体は好きだから、という理由だったように思う。それをみんなで暗唱する。詩の朗読のようで楽しかった。他の人の好きな詩を覚えることはうれしい。
長いみことばには語呂合わせがあったりもした。
「こたあしんじゅんしん」、それを暗唱の最中に口の中で言う。
そのあとは大人たちの礼拝がある。二時間ほど、牧師さんのメッセージ(説教)を聞いたり、献金を回したり、今週の予定を確認したり、讃美歌(今度はよく知られているような伝統的なもの)を歌ったりする。
二時間。子供にとっては気の遠くなるような途方もない時間である。学校ではたった十分の休み時間にも教室を飛び出して階段を転がるように駆け降り二秒で上履きを運動靴に履き替え命をすり減らしておにごっこに勤しんでいる子供が、二時間も何もせずじっとしていられるだろうか。
実際はここで帰る子供もそれなりにいた。私もほとんどはその一員だった。しかし、親が礼拝堂にいる子供は仕方なく、もしかすると積極的に残っていた子もいたのかもしれないが、おおかた仕方なく、その大人の礼拝に参加していた。
子供達は大人と一緒に礼拝堂に集い八人ほどが座れる長椅子に腰掛けながらも、みな暇を持て余してプログラムの紙に絵を描いていた。起立の必要があればペンを椅子に置いて慌てて立ち上がった。
牧師さんのメッセージはよく聞こうとすると漫談のようで面白く、大人の参列者の皆さんもすごくウケていたが、しかし子供にはまだ難しかった。
私は大人の礼拝で聴く讃美歌が好きだった。できれば覚えて歌いたいと思っていたが、音程を知る方法がなかったので、なんとなく次の音にあたりをつけて小さくハミングしていた。
教会の建物は自分が通っている途中で改修して、礼拝堂は特に白く、明るくなった。
高く傾斜のある天井の頂点付近にはくり抜かれた十字があり、それは調光窓の役割も果たしていた。いつも狙い澄ましたかのような光が、嫌なことなど何もなく白い壁に降り注いでいて、それを私はよく見上げていた。そこに誰もいなくても、オルガンも、講演台も、椅子も、すべてのものが意味を持って存在していた。
私は誰もいない礼拝堂が見たくて礼拝の後に何度か忍び込み、人に見つかったら自失のふりをした。
その空間にいながら聴く讃美歌は言葉にし難いがとにかくとてもよかった。どの曲でもオルガンの音が止んでしまうのが嫌だった。
先に「信仰はない」と書いた。それはその通りなのだが、一度、これが信仰なのかも、と強く思った瞬間があった。(しかし私が思うに信仰とはもっと生活に根付いたものであり、いっときのものではないので、きっと彼らに対しては多分不躾な感覚である。)
最近読んでいた文章で「激しく胸を打つような敬愛」といった表現があって、この時のことをありありと思い出したため、ここに記しておく。
"子供の礼拝"の一環に、合宿というものがある。クリスマスの前後に開催される行事で、教会内で参加者みんなで二泊ほどする。私はたしか二度、教会に行き始めたばかりのときに参加した。
七、八歳くらいの頃だろうか。
寝る前に、ミーティングのときに使ったホワイトボードに書いてある「イエス様」という文字列を見て、誰だろう?と思った。未熟な頭で必死に考えて、「はい」の英訳である"yes"なのではないかと考え、何かアイコンめいたサンタさんのようなものだと思った。恵みをもたらしてくれるのだ、と上級生や先生役の方たちがしきりに言っていた。
自分にはありがたいことに、サンタさんを信じさせてくれる人たちやその存在を信じていられる期間があり、その思考に辿り着くのは自然だった気がする。
だから「姿を見ることはあまりかなわないが、何かいいものをくれる人」であると納得して、いつ合宿中に現れてくれるのだろうと思ってわくわくしたが、ついに彼は私たちの前に現れなかった。教会ではそれらは当然のことすぎて説明されなかったので、私は合宿中ずっと謎の存在に思っていた。
合宿中は常に"子供の礼拝"をしている状態なので、讃美歌を毎夜歌う。子供用の讃美歌には手話がモチーフだったり、特に意味のない楽しげな動きだったりするダンスが付いていた。年齢を重ねてませてきた子供はそれをフン……という顔をしながら限りなく小さい動きで行うので今思うと大変可愛い。
そして二度目に参加した合宿で、「激しく胸を打つ敬愛」は訪れた。もっと正確にいうと、いつも合宿の最終日には礼拝の日、つまり日曜日があててあって、その日にそれは訪れた。
礼拝の中で、「合宿の成果」として大人に子供用の讃美歌を披露する場があった。合宿の会場に人々が訪れるので、子供たちみんなの間に参観日のようなそわつきと緊張感があった。
曲名は思い出せない。子供の讃美歌の中でもかなりテンポの速い曲だった。「イエス様から決して離れてなるものか」という一節を歌ったときに、私は「どうしよう!」と思った。発表会のような合唱コンクールのような形式だったので、皆ダンスは踊っていなかったのだが、その時の私には踊り出せないのがあまりに苦しかった。
この昂まりをどうしよう!誰に伝えたらいいのだろう!そのときに、それを伝えられる、伝えるべき相手はただ一人で、ひどく敬愛に襲われた私は礼拝のときに讃美歌を歌いながら涙を流す大人の気持ちを理解した。
これが「胸を打つ激しい敬愛」の経験である。
これ以降はというと、讃美歌を歌うときに限って同じような気持ちは何度か訪れた。完璧に信頼できる上位の相手に揺るぎない信奉と愛情を向けるのは、精神にとってよいものなのであろうと思う。
それは子供の自分だけでなく大人であっても同じで、それが恥ずことでないというのは、お父様、と祈りの際に語りかけることで証明されるのだ。
きっと私たちはみな神の前では等しく子供に過ぎないのだから。
いつも子供は弱くて、何かに守られていないといけないのだから。
ここで教会と自分の話は終わりである。
もっとあるかもしれないが、思い出したらまた記録していきたい。教会にまつわる思い出は、自分にとってすべてよいものなのだ。
何物にも侵されない、光差す記憶である。
さて、自分は小学校卒業と一緒に教会のあるその土地から引っ越すことになった。
私は最後の方はほとんど礼拝に行っていなかったのに、お別れの挨拶の時に友人のお母様からは聖書をもらった。
今後もその全部を読むかはわからないが、有事の際にはそれを持って逃げるのだと思う。猫と一緒に。