愛へ おこがましさより
私がうまくいかない、というか得体が知れなくて恐怖している、恋愛および愛について。
(愛を語ることのおこがましさを書く間常に感じているので周りくどい。そして原始的な悩みなのですごく恥ずかしくそして多少不気味に感じているということは始めに書き添えておく)
私の恋愛(と思しき、一般的にはそうであろうもの)が駄目になる寸前に、自分の中で爆発する考えをまとめてみる。
・そもそもとして親愛と性欲を一緒の対象に抱くのは怖すぎ
・相手にはその二つを抱ける(社会的に可能な)相手が“恋人協定”を結んだ私しかいないの怖すぎ
・相手が今どちらを抱いているのかわからないの怖すぎ
とにかく“相手”を警戒しすぎて自分の相手に向かう感情の入り込む余地が無い。上の3つは上から順に冷静さを欠いているのだが、一番上はとりわけ冷静になったときに自分に流れていると感じるものだ。
本当にどういうこと?
そもそも恋愛には「相手が大事」という気持ちが多く含まれているんだとそこそこ生きてきて、さっきの考えごとで、ようやくわかった。というより、なんとなくそんな気はしていたが考えが染みた、というのが正しい。
大事な相手なのに…性行為はまた違くないか………?と思ってしまう。たしかにそういうのはコミュニケーションだったり、愛情表現だったりするかもしれないのだが、どうしても私の中で大切さと性行為が結びつかない…別物じゃないの……?同時に成立するのか?何?
その辺りに関しては疑問しかわかないから、それが人間の生理であるかのように恙無くこなせている人たちをとても尊敬する。天晴である。
二つ目の、「相手には性欲を正当に(?)抱いていい人間が(社会的には)自分しかいない」ということだが、これは特に駄目になっちゃう原因になっている。
怖くない…?今後永遠に自分がその対象になり続けることへの拒絶がものすごい。うわっ私でごめん!いなくなります!という気持ちになる。付き合っている最中常に申し訳ないという気持ちになる。恋愛における責任の重圧はほんとうに耐えがたくてこまった。相手の人生がかかっているかもしれないだけに。
最後のは、末期くらいにお風呂で頭を抱えて呻きながらぐるぐるするやつである。そして呻きながら身体を拭いて、呻きながらドライヤーをかけたあたりで疲れる。「相手が何考えているのかわからない」はもう根本的に人付き合いがアウトな人間の考えで恥ずかしい。友人付き合いというところでもうてんやわんやなのに、恋愛なんてよくわからんのを入れてこられたらさらによくわからない。
相手が私を選んだ時点で、一体全体どこがよくて私なのかわからなすぎて怖くてずっとびくびくしているので、それは続かないよねとは思う。今回はうまくいくのかもしれないと毎回希望を持ってしまうのが駄目なんでしょうか。教えておじいさん、教えてアルムのモミの木…
読みかけている本や初対面の人とのちょっとしたお話に対する気持ちの方が、私にとってはよっぽど恋愛らしいキラキラを纏っていて、私はそれを感じるのみでよいのだと言い切って仕舞えばいいんだけどなあ。でも大好きな友人が次々と(もう本当に次々と)恋愛の人質になっていく様子に、大切な猫が野良蛇と一戦交えているのを見ているようなハラハラ、あとは少しの羨望と軽蔑と恐怖と寂寥を抱いている。
まったくひどい言い草だな
セクシュアリティの問題じゃない?の閃きに我ながらベストジーニアスを感じていたが、一旦勉強してみるとやはりなんとなく判然としない。
notジーニアス…ピンクの隣に置かれたグレーがうっすら赤を帯びているみたいだと錯覚するみたいに、カテゴライズのための質問の全てに当てはまるような気がするし、反対に全部違う気がする。
わからないことがわかってめちゃくちゃになったのでもう寝る。
明日はパン屋さんに大好きな四角いパン買いにいこ。道に野良猫がいたらもっと嬉しいな。
おこがましさより
おやすみ