コラム“キモオタマッカーサーとは何か?”

概要

諸説あるが、筆者としては次のように考えている。

「キモオタマッカーサー」とは、偏った持論を他者に押し付ける者。
嗜好が偏っているイメージから「キモオタ」、他者の振る舞いに意見するイメージから「マッカーサー」という比喩を挙げ、それらを連結して総称として扱っている。
つまり対象を貶める表現となる。

糾弾の背景

人間関係において、それぞれに多様な価値観がある中で、正解を一つに定めることは困難である。
正解に見えるものは、ある主観において成立する一例に過ぎない。
そのような可能性を無視し、自らの主張を盲目的に真とする物言いは慎むべきだ。

注意点

しかし、ある者に対し“偏った持論を他者に押し付ける者”と断定し、「キモオタマッカーサー」呼ばわりする行為はいかがなものだろうか。
それもまた、視野の狭い決め付けの一種といえるのではないだろうか?
したがって「キモオタマッカーサー」という表現を使った時点で、彼(彼女)自身もまた「キモオタマッカーサー」となるだろう。

これは“キモオタマッカーサーの因果応報”と呼ばれている。

補足

また余談として、「キモオタマッカーサー」といえば「みんな争い好きなキモオタマッカーサー」といったフレーズで使用されることが多い。
この時「みんな争い好きな」という表現は、MCバトルをはじめとした“対戦型”の韻を礼賛する界隈への皮肉である。

相手を貶めたり、自らの優位性をボースティングすることが(韻のルーツと深く関係した)ヒップホップにおいて、王道の一つであったことは確か。
しかし、対戦型こそが唯一理想的な韻の見せ方かといわれれば疑問を覚える。

なお、以前より述べている通り、筆者は対戦型ネットライムに対して“対戦型であることが表現を狭めている”という点で否定的である。
ただしこれは個人的な好みの話なので、他者に対して同調を求めはしない。
“対戦型であることが難易度を高めるための制約として機能し、面白さに繋がる”と捉える人々の存在は否定しない。

まとめると「みんな争い好きなキモオタマッカーサー」とは、“誰もがバトルを重視しており、またそのような考えを他者に押し付けている”といった被害妄想である。
みんなは言い過ぎでは?

蛇足

読者の中には、「マッカーサーや総司令部が日本に憲法を押し付けたとする論説自体、エビデンスが不確かなのでは? そうすると“押し付ける者”の比喩としてマッカーサーを用いることは不適切では?」と思う方もいるかもしれない。
そうですね!

あとがき

この文章は、押韻島陶芸教室のキモオタマッカーサー論争をきっかけとして書かれました。
論争を通して、普段当たり前のように使っていた「キモオタマッカーサー」という表現の捉え方が、読者によって大きく異なることに気付かされました。
そのような経緯を踏まえ、我々人類が相互理解を深めるための参考資料として、筆者の考えをまとめたものです。※1

(文/キモオタマッカーサー)

脚注

※1 「我々人類」と書けば自分も人類側であるかのように錯覚させやすい

from 韻韻

aha!

変更履歴

2023.11.20 メールマガジン用に書き下ろし
2024.6.6 note用に改稿

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