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「びくにはし雪中」−隠語料理はみんな知っている。−『名所江戸百景』

今日も今日とて期末課題。
朝9時から昼2時までバイトでその後に始末したので頭がぼーっとしてしまい、夕方6時から7時半くらいまで寝っ転がって過ごしてしまいました。

まだまだ残っているのでこんなぐうたらしている場合じゃないとは思いつつも、ぎりぎりにならずに締切の2日か3日前に提出することができているのが褒めポイント。笑。

早く美味しいランチ食べにいって美術館行きたいなあ!

そんな今日も広重
今回は『名所江戸百景』「びくにはし雪中」です。

雪景色。人々の足首が雪に埋まってしまうほど積もっています。
犬も三匹集まって何か会合を開いています。笑
東京エリアでもこんなに雪がふるのですね。


比丘尼橋は昨日の京橋をみた時に京橋川に架かる橋の一つとして上がっていました。
この絵の橋は雪を被ってちょっとした丘みたいになってしまっていますが、。
そんな中出前か何かでしょうか、肩に担いで棒手振りみたいな感じになってますね。

手前の看板は「山くじら」という文字があります。
山くじらとは猪の肉などの獣肉を使った動物肉の鍋のことでした。
今でいうジビエみたいなものかな?
今でこそジビエという直接的な料理の部類の表現がありますが、当時は獣肉を食べることは禁忌とされていました。

江戸時代はまだ、獣肉を食べることを良しとしない風潮が強く、表だって肉を食べることは一般に避けられていた。山くじらは猪の符丁(ふちょう)のようなものなのである。鯨も哺乳類だから同じに思えるが、当時の人々は海にいる鯨は魚と認識していたからである。魚ならOKというわけで堂々と看板を掲げて営業しているのである。別に客を騙していたわけでもなく、周知の事実だった。洒落っ気というか、どこか江戸の人々の感覚はあっけらかんとしている。因みに捕鯨は江戸時代前には関西方面で始まっているため、鯨は知られていたと思える。

「山くじら」と表記しても「ああ、猪だな」とわかる江戸の人にこの洒落が通用しているのは面白いものですね。隠語看板をちゃっかり周知なものとしているのが江戸っぽい。


この言い換えは、近世までの日本の食文化が肉食忌避文化であったからに他ならない。仏教伝来以降、殺生の戒めの影響が大きかったのではないだろうか。
(中略)
牛肉を食べるようになったのは、西洋文化が押し寄せた明治以降だ。仮名垣魯文の『安愚楽鍋(あぐらなべ)』には、牛鍋店で語り合う人々の世相が生き生きと描かれている。文明開化の代表的な光景である。明治天皇が明治5年(1872)に牛鍋を食べたことから、人々も大手を振って牛肉を食べられるようになって広まった。

宗教上の理由から特定の肉を決して食べないという国が世界に存在するなかで、わが国の建前と本音を使い分けてきた肉食の歴史は、驚くべき柔軟性をもった食文化といえるだろう。

牛肉を表向きに食べられるようになったのはもっと後の明治以降と言うことですね。
それまでは「お肉、食べちゃだめだよー?」という暗黙了解があったけれど、人々はダメだとわかっていても平然と食べていたのでしょう。


また、画面右の看板の「◯やき」と「十三里」という表記。
これ、一見「なんだ、歌舞伎の演目か?」と思うほどの単語感。
これはさつまいもを丸焼き=◯やきにして売った店の看板。

つまり焼き芋店。
「栗よりうまい」という文句で「九里より四里」という語呂らしい。
うまいのところが納得いかないけれど、九里と四里を足して十三里という数にしているということであるようです。

だからか、犬が集まっておこぼれをもらおうとしているというわけですね。

冬の寒さの光景と当時の食文化を知れた回でした。

今日はここまで!
#歌川広重 #名所江戸百景 #びくにはし雪中 #山くじら  #

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