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「両国花火」−鍵屋〜って言えたら通。−『名所江戸百景』

期末レポート残り一つ!
重め!
それ終わるまで書きません…。

書けません…。




え!えらい!三日前の書いてない記事を書こうとしている!

といって自分を鼓舞します。朝も早く起きれない自分を励ましてやらないと一日一褒できません!!

先ほど太田記念美術館『江戸の恋』展のオンライン展覧会を購入いたしました。
全く同じものをネットで永遠に見られるなんてすごい時代ですね。
やっぱり図録は欲しいしチケットも手にしてときたいけれどこんなにコロナ感染者が増えていれば仕方のないことです。
ゆっくり見られるし、細かく見られるし、いいこと尽くめですからね。

そんな現代の便利さのありがたみを感じている今日も広重。

今回は『名所江戸百景』の「両国花火」です。

光とそれ以外を明るさではっきりと区別しているように見えます。
屋形船の中の灯りと、花火の光の二つしか見えません。
橋の上も人の往来があるのをシルエットの濃淡で表されているし、奥の街並みも花火が照らす光でわかる濃淡でしか表現されていません。

なかなか面白い表現ですね。
花火自体が球体で描かれることはなく上がる時の軌道と爆発した後の散る様子が一つ一つ星のように見えますね。

現代では隅田川花火大会としてコロナ前は激混みになるイベントでした。

いいなあ、デートで行ったらめちゃくちゃ楽しだろうなあ。

江戸時代の当時の花火の打ち上げは旧暦の五月二十八日であったそう。

川開きと花火その由来
歴史的記録の残るものは両国の花火が最古となっています。江戸時代の享保17年(1732)の大飢餓で多くの餓死者が出て、更に疫病が流行し国勢に多大な被害と影響を与えました。
幕府(8代将軍吉宗)は、翌18年(1733)5月28日(旧暦)犠牲となった人々の慰霊と悪病退散を祈り、隅田川で水神祭を行いました。この時に、両国橋周辺の料理屋が公許(許可)により花火を上げたことが「両国の川開き」の由来とされています。

花火をする理由も享保の大飢饉で亡くなった人々のために吉宗が慰霊と悪病退散を込めて開催したそうですね。
そこで昨日見たような広小路に出店していた飲食店が協賛して花火を上げたそう。

川仕舞いは七月十日と八月二十八日の2日で、花火が打ち上げられました。


確か以前、花火が打ち上がる時の「玉屋〜」「鍵屋〜」の掛け声の由来を知りましたね。
花火職人のふたつが競い合って、素晴らしと思った方の屋号を叫ぶといった文化。
確か玉屋の方がめちゃくちゃ商売繁盛していたけれど一代で終わってしまったのが印象的。
鍵屋の方が歴史は長いけれど分家したのが玉屋でしたね。

因むと、両国橋の上流、つまり御蔵橋の方を玉屋が。
下流を鍵屋が担当して花火を打ち上げていたそうです。
だから、この絵では奥に神田川が見られないために上流から描いているのかな?
絵は鍵屋かもしれないですね。



やはり隅田川両国の花火は浮世絵で頻繁に描かれました。

広重『東都名所』「両国花火」

意外と人々が見上げていないのが面白いところ。
メモくれず買い物やお話に花を咲かせているのが印象的ですね。

歌川豊国『江戸自慢三十六興 両こく花火』
やはり一番の見やすい場所は屋形船のようですね。
おめかししてゆったりと見ています。

広重『東都名所之内 両国花火』
花火がまるで隕石みたいな勢いで描かれていますね。
この正面の橋は両国橋ではなさそうですが奥の両国橋は人がわんさか往来しているのが見受けられます。


やはり伝統的なイベントは親近感があるし見ていて江戸と東京のつながりを直に感じられますね。

今日はここまで!

#歌川広重 #名所江戸百景 #両国花火 #隅田川花火大会 #玉屋 #鍵屋 

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