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鏑木清方の作風が出来上がる時!

今日は雨で気分が落ちて仕方ない日でした。外に出ても一瞬で前髪の巻きが取れてベタベタした前髪になって不潔感万歳になってしまって、嫌だね。

だから家の中でも雨を感じたくなくて一日中カーテン閉めたままの生活しました。

そんな日も鏑木清方。なんか馴染まなくて違和感ですね。笑


今日は1900年以降の歴史からです。

仲間と烏合会という集団を結成しました。

こちらのPDFに詳しく記載があります。

この論文は明日の授業中に読み込んでみたいと思います。(嘘)

1891年,月岡芳年の高弟水野年方(1866‐1908)の門に入り,17歳ころから新聞挿絵を描いて知られ,尾崎紅葉,泉鏡花らに親しんだ。1901年大野静方,鰭崎英朋らと烏合会を結成し,浮世絵から本格的絵画への展開をはかり,09年《一葉女史の墓》を発表。文展時代(1907‐18)に入って《墨田河舟遊》《ためさるゝ日》などの力作を出品,19年の第1回帝展からは審査員となった。

月岡芳年、水野年方、尾形月耕の門下生たちが展覧会を定期的に開催するという会ということですかね。

ここで出展された「一葉女史の墓」という作品が自分の制作の源になったといいます。

それがこちら

明治29年(1896)の『文藝倶樂部』に、樋口一葉の名作「たけくらべ」が一括掲載されました。本誌を読んだ清方は、深い感銘を受け、以降一葉文学をこよなく愛読するようになります。数ある一葉の小説のなかで「たけくらべ」に最も親しみました。
明治33年(1900)に、泉鏡花が『新小説』誌上で短文「一葉の墓」を発表すると、清方はこれに触発され、築地本願寺にあった樋口家の墓を訪れました。香華(こうげ)をたむけた際に、「たけくらべ」の主人公・美登利の姿がありありと脳裏に浮かんだといいます。
この時に写した墓のスケッチには「墓標の高さ、わが丈にして乳のあたりまで」と書き留めてあり、本作品の構想がすでに浮んでいたことがうかがえます。
虚と現実が交錯する本作品を、清方は後年に「さまざまの意味を籠(こ)めて、これは私生涯の制作の水上(みなかみ)」であると述べました。

どの美術館でも鏑木清方の作品は写真撮影撮影禁止だったので、著作権的にアウトなきがして載せません。

近代の小説家に触発されることが多いようで、この作品も泉鏡花の短文「一葉の墓」という作品をイメージ化したものであるらしいです。その中の一葉とたけくらべの主人公が重なったらしい。

ちゃんと「たけくらべ」も読んでみないとわからないなあ。明日読んでみます。

この時代は文学と結びついた絵画作品は画壇で認められにくかったと言います。


ここで清方は浮世絵を研究して、自分の画風と浮世絵を混ぜた美人画を描くことで従来の浮世絵や美人画にある卑俗なイメージを払拭したと言います。

そこからより一層の高い評価を画壇の中で得ることができたとか。

確かに清方の絵は下品というには言い過ぎですが俗っぽいが過ぎる絵はなかなかないですよね。

「あやしい絵展」の図録にある作品で尾崎紅葉の「金色夜叉」の看板絵や、泉鏡花の「深沙大王」という戯曲の挿絵、徳冨蘆花の「不如帰」の挿絵が載っていました。

それも全部俗な絵という印象ではなく、美人画の最上級という印象。なんとも言い難いけれど俗よりも雅寄りである感じがします。

明日からは清方が江戸を描く時についての歴史を知っていきたいと思います。

今日はここまで!

#鏑木清方 #烏合会

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