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【日本語訳】DPR IAN on Mindset: 1. The Making of MITO, Moodswings In This Order

人生の段階によって色々な名前を使い分けてきた。それら全て、新しい自分を模索することへの愛によるものだった。

エピソード1:MITOの制作について

DPR IANです。DPRでアーティストと映像監督を兼任しています。

人生には色々な時期がありますよね?その時期、段階によっては今までの自分とは異なるキャラクター(人格)になることがあります。僕はその時期のそのキャラクターそれぞれに名前を付けています。幼い頃からそうしてきました。

僕はシドニーで生まれ、小学校をもうすぐ卒業するという頃にウロンゴンに引っ越しました。(ウロンゴンと比較して)シドニーにはアジア人のコミュニティーもあったし、アジア人に対してもっと寛容でした。ウロンゴンに越して、初登校した時のことを覚えています。舞台芸術の学校に行っていました。そこにはほとんど白人か中東人しかいませんでした。(アジア人がいないことを)正直そんなに気にしてなかったんですが。他人からどう見られているかをあまり悲観的に受け取らなかったのが良かったんだと思います。周りの子達のアジア人のイメージはブルース・リーやジャッキー・チェンでした。おそらく映画から得たイメージだと思うんですが、、、なので、彼らは僕がブルースやジャッキーと直接血が繋がっていると思っていたみたいです。そう思うのも無理はないですね、その時は髪伸ばしてたし…笑 本当にブルース・リーの従兄弟だと思われていたんですよ。あ、仲良くしてましたよ!本当に仲良かったです。舞台芸術をちゃんとやっていなかったので、(舞台芸術を)選択しないといけなくなりました。習わざるを得なかったんですよ!(笑) 次の日に学校に行って、彼らに見せなきゃいけなかったんです。本当にやりましたよ(笑) 家に帰って僕が棒をくるくる回してると、たまに母が一階に降りてきて、何してるの?って聞いてくるんです。なので僕は、今にわかるよ。とだけ言ってました(笑) 驚くことに、僕はかなり棒回しが得意だったんです。剣使いも上手いんです。強制されてたにしても、得意だったんですね。そうして学校に行って、みんなに披露したら、みんな感動してたと思います。それが初めてみんなを打ち負かした時でした。

7歳くらいの時に初めてミュージカルを見に行って、Catsを見ました。その時の感情を今でも覚えています。猫に扮した人たちが猫のフリをして演技をしているのは、7歳の僕にはとても圧倒的でした。演劇、そして音楽。説明できない感情を抱きました。その頃、自分も誰かにそういう感情を与えられる何かを作りたいということだけは分かっていました。アートや表現を通して、誰かに影響を与えたかったんです。当時、メタルがすごく流行っていたんです。ハードコアメタルやハードコアロックですね。その頃は、それが僕の人生でした。吸い込まれましたね。そういう'Angry Music'ばかり聴いていたハードコアキッドでしたね(笑) 怒ってたわけじゃないですよ!ストレス解消してました。この頃、初めて音楽の世界に足を踏み入れましたね。ハードコアのライブに行くと、クラウドサーフをよく見るんです。クラウドサーフというのは、人がステージにジャンプして、ステージから観客の方にダイブすることです。そこにはセキュリティーとかもなしなんですよ。むしろ、ボーカルもバンドもそれを受け入れてます。一種の文化のようなものですね。2,30人くらいがダイブするのを見届けて、「人生一度きり、やるしかないっしょ」と思い、ステージにジャンプしました。メインボーカルと目を合わせて、飛びました。キャッチしてもらえないんじゃないかと思って、かなり怖いんですよ。でも実際はしっかり支えてくれるんです。気絶したり、倒れることもあります。なのでそういう時は一旦止めて助け合うんです。殴り合いをしているようだけど、本当はみんなお互いを気にかけている。こういう文化があるからこそ、僕は(この世界に)惹かれたんだと思います。間違いなく、僕の人生で最高だった経験の一つです。もし僕がオーストラリアにいるままだったら、何かしらのハードコアメタルのバンドに入っていたと思うし、のめり込んでいたはずです。

僕の母は僕に歯科医になって欲しかったみたいですが、自分の手には負えないと感じていました(笑) 間違えて人の神経とかを抜いてしまいそうなので(笑)
当時すでに自分がやりたいことは何となく分かっていました。それが、大学に行って修士号を取ることではなかったんですね。
ずっと韓国に行ってみたかったし、何か大きなものを始めたかった。でも'それ'が何なのかはまだ分かってなかったです。ただただ情熱と野望に満ち溢れた少年でした。「もう勉強したくないや」と思うには十分すぎる理由でした。飛行機を降りて、「わぁみんな韓国人だ」と思ったのを覚えています。当時はまだ韓国語は話せませんでした。僕はどう見ても韓国人なのでみんな韓国語で話しかけてくるのですが、上手に話せなかったのでとても大変でした。初めの数ヶ月は、朝の3時に出歩いてましたね。すごくお腹が空いていたんです。そしたら、スーツに赤いネクタイをした親切な男性に会ったんです。なぜ赤いネクタイなのかは分かりませんが、すごく記憶に残っています。その人が近づいてきて、何歳なのか、どうやって生計を立てているのかを聞いてきたんです。詐欺か何かだろうと思いました。そしたら名刺を渡してきて、来られるかと尋ねてきました。翌日にある特定の場所に呼ばれたんです。名刺にはイェダンと書いてありました。なので次の日に実際にその住所の場所に行ったんです。着いてみるとそこには30人くらいの列ができていました。歌ってる人もいればダンスしてる人もいたり、、、みんな何かしら練習していました。オーディションだったんです!僕はサンダルに短パンでした。もちろん身体的にも精神的にも準備なんてできてなかったです。なので帰ろうと思いました。そうしたら、この間の男性が歩いてきて、「お、ちゃんと来れたんだね」と言ったんです。なので、「何も準備できてないのですが…」と返しました。
当時、ブレイクダンスをやっていたんです。僕の前にオーディションを受けた人を捕まえて、「音源を借りてフリースタイルでやってみて」と言われたので「分かりました。フリーなら数回やったことがあるので出来ます」と引き受けたんです。音楽が流れてきました。その時は全然何の曲か分からなかったんですが、Psy Championという曲でした。結構コミカルな曲なんですが、分からないのでとにかく真剣に曲に合わせてブレイクダンスをしたんです。真剣にフリーで踊って、床で回ったりして…頭の中では「うん、オワった。何が起きてるのかも分からないし、何でみんな笑ってるのかも分からない」と思っていましたね。俯きながら部屋を出ました。帰り道、「明日もまた来れるか」という旨のメールが来たんです。そのまま次の日に練習生になりました。それが本当の、本当の全ての始まりでした。

すごく圧倒的でした。練習生生活を、サバイバルのようにしようとしていたんです。カバーでも何でもとにかく毎週自分たちのパフォーマンスする曲を考えなくちゃいけなかったんです。それで毎週末、社長や室長などの前でパフォーマンスしないといけませんでした。その時から審査されるようになり、最終的には予選のような感じになりました。なので、最初からとても熾烈でした。
会社は僕をリーダーにしようとしていたんです。K-POPグループのリーダーになるということは、グループを代表するのもそうですが、そのグループで一番話さなくちゃいけないので責任がものすごいんです。ライブでもトークショーでも何でも、的をついた韓国語を話さなきゃいけないんですね。それが僕の究極の韓国語習得法でした。グループには僕の他に5人いて、それぞれ韓国の異なる地域から来ていた韓国人でした。それぞれの地域にそれぞれの方言があるんです。みんな違う方言だったので、僕の韓国語はバラバラの方言を話す3人の韓国人から学んだんです。それに加えて、オーストラリアのアクセントがあるので、後に僕の韓国語は北朝鮮の人が話す韓国語のようになりました。なので他の人が困惑するんです。

練習生になったその日から、メンバーは家族のようなものです。熾烈ですよ。突然、みんなで色々共同して生活する世界に入り込んだんです。ベッド、トイレ、服全てに名前を書くんですよ。すごく大変でした。一つ屋根の下に、マネージャー2人と男8人が暮らしてるんです。最悪でした。

他のグループやアイドルを見ることすら禁止されていました。目を合わせてはいけないと言われていたんです。最終的には競争だからです。他の全ては敵だと認識するように、一種の洗脳をされていたんですね。車の中で寝るのも禁止されていました。緊張感を保たなくちゃいけないので、楽屋で座ることも禁止されていました。
もし一つでも違反したら、みんなが通る廊下で跪かないといけませんでした。それが人生で一番恥ずかしい瞬間でした。それは避けたかったので、ただただ言うことを聞いていました。メンバーが叩かれる時もありました。帰ったら床に倒れている時もありました。こういう出来事を親に話すのも禁止されていました。すごく細かく覚えているんですが、マネジメントの人が1人僕を連れ出して、「言いたかったら全部親に言ってもいいけど、それは賢い選択じゃないと思うよ。わかるよね?」と言ってきました。こうして自分の感情を抑えて消し去らないといけない瞬間が数え切れないほどありました。こうして体裁を保っていたんですね。
他のことがやりたいと思っていました。このサイクルから抜け出すために、何か違う代替案が必要だと分かっていました。一つ、このアイドルビジネス業界から得たものとすれば、制作に携わる人と親しくなれたことです。当時の韓国では、監督になりたければ、5年使い走りをして、10年ADをやって、それで初めて監督になれます。それゆえ、韓国の年配の映像作家や20年30年やっている監督が40代だったりと年齢の幅があるんです。35,36歳になるまで自分のフル作品が作れないんですよ。当時の韓国はそれが普通だったので、「カメラ持って撮るだけでディレクターになれるじゃん」と思っていた自分には理解できなかったです。これにはヒエラルキーの文化がかなり関係あると思います。アジア文化はそれに基づいているんです。若く、自分の作品制作やそのマネジメントに奮闘している人は見たことなかったです。完全起業という考えが本当に浸透していなかったんですね。
僕と同じ年頃で映像制作をしたい人を探していたんですが、1人も見つかりませんでした。監督として自分を売り出した時、僕がBobbyのプロジェクトに辿り着くまでは本当に多くのプロダクションから下に見られてたのを覚えています。多分25歳くらいだったと思います。本当に大きな仕事でした、それまでは予算が多くても10K, 15K (多分200万くらい)だったので本当に少額でした。でもこのプロジェクトでは、100, 200,000(ドル)と上がっていきました。そうなると突然、チームが必要になります。撮影監督、照明、ランナー、など必要になったんですね。なので自分がアイドルグループにいた頃に撮影してもらった方のところに行って、「こういうコネはどうやって見つけたらいいですか?失敗したくないんです。見下されてるし、信用されてないんです。」と尋ねたことを覚えています。そうしたら、「助けてあげるよ。でも紹介する毎に、一つ映像編集してもらうよ。」と言われたので、そうしました。映像を6〜7本は編集したと思います。一本映像編集する毎に、一回連絡をもらいました。それで良くなかったのが、その紹介の連絡の何回かは僕と一緒にやる気がない連絡だったことです。なので、それ初めに確認するべきじゃない?と思いましたね。そうして、僕より年上だったんですが、初カメラアシスタント、初照明、初アートアシスタントの方々とチームを組みました。その方達にとっても、こういう大きな仕事は初めてだったんです。2ヶ月の間、とにかく集中してのを覚えています。

型破りなスタイルでやりたかったんです。アイドルがいるとは思えないところにアイドルを立たせて、スポットライトを浴びせてみたかった。洗礼され、綺麗で美しい見た目ではなく、より野生的に、風変わりで、汚なくやりたかったんです。そういう綺麗さから離れた、アーティストしての汚れをBobbyに与えたかったんですね。

すごく実験的な試みでした。その当時は「無難にいこう」という風潮があったので、他の制作会社が僕みたいに実験的なことをすることはほとんどなかったです。ただ作ればいい、アーティストを良く見せればいい、という感じでした。ほとんどの監督がそういうマインドでやっていましたが、僕はそれにチャレンジしてみたんです。
当時BobbyやMINOは他にも映像(MV)がある曲をリリースしてたので、競争のような感じでしたね。BobbyのMVを単独で担当すると思っていたプロダクションがたくさんいたんですが、実際は単独ではなかったんです。その頃から、(他のプロダクションが)僕らの悪口を言うようになったんです。セットに僕が歩いて行くと、そこには年配でそれぞれお互い知っているようなスタッフが50人くらいいたんですが、監督は誰なのかと話していました。それで僕のような25歳のお子ちゃまが監督だと知り、真剣に捉えてなかったんですね。一発目のシーンが終わった後だったと思いますが、うまくやらないといけないのでこのシーンで証明しました。暗い部屋で、曲がちょうどフックの部分に差し掛かると同時にライトがついて、撮影が成功。そして突然、ライトと風の層が出てきて、これがもう本当にクレイジーで美しい’汚れ’なんです。これを見たら何かを感じずにはいられない、そういうシーンです。

僕が最初のテイクでカメラを回すように指示し、アクション!と言った時、全員が畏れを感じていたあの瞬間を覚えています。

あの瞬間が初めて、他のプロダクションに勝ったなと思い、安心した瞬間だと思います。

DPRは、'アイドル'に触れる機会がこれ(おそらくMINDSETのこと?)しかない人や、ある特定の番組に出ないと売れないと思っている人に向けてのグループだと思います。DPRはそういうの無しに本物になれることを証明する新しい良い例だと思います。なりたいようになれるんですよ。

DPRを通して僕が7歳の時に経験したことをどうにか再現できているというこの事実こそが、僕にとっては全てなんです。
僕の今までの人生があったからこそ、僕がやりたいことだけに尽力できる環境である彼らを見つけられたんだと思います。それってすごく大切なことなんですよね。

'I just want you to close all the doors'
'Just leave me alone'
'I tried to hide it'
'I'm scared of what's next'
'I still don't know where to go'
'So, welcome to the show'

この曲は、'混沌を経験する自分'というアイデアに基づいています。世界の終わりを感じているような自分を描いています。この曲を書きながら、実際に混沌を感じていたんです。本当にかなり悪い状態でしたね。
でもそんな時に、確かLIVEか誰かだったと思うんですが、「ヒョン、ハンバーガー食べない?」って聞いてきたので、「食べ行こう」と答えました。ごちゃごちゃしている自分の脳内と、それでも自分の周りの世界は動いているというそのギャップがありますよね。なので毎日毎日頑張らなきゃいけないし、なんであれ受け入れなきゃいけないんですね。この曲ではそういう部分に触れたかったんです。どんなに堕ちていても(鬱)、受け入れるしかないんです。

僕の中にもう一方の自分があるんですが、それを韓国語では「異」のような「人格」と言います。鬱状態の自分と'自分'をずっと別のものとして切り離してきたんですが、それが心理的なものなのか、結局は気持ちを楽にすることなのか分からないんです。でも、鬱や躁状態の時は特にずっと別の人格を演じてきました。鬱や躁状態の時は、いつもの自分より人間として強くなる感じがするんです。僕はその'人'をスーパーヒーローだと考えていて、ずっとそれをキャラクターとして表してみたかったんです。MITOは僕です。
MITOという名前は、'Moodswings In This Order'を略したものです。存在するすべての精神障害を患うとどうなるか、そしてそれを1人の人間に背負わせるとどうなるかをイメージしました。でも彼はその障害を自分の良いように使えるんですね。自信に満ち溢れ、圧倒的なカリスマがある。闇があるけど、魅力的。サイコパスのように聞こえるかもしれないんですが、信じてください、サイコパスではないです(笑) 僕が求めていたものなんだと思います。それが僕の超能力だし、その状態の時が唯一、Welcome to the Showのような曲が書ける瞬間だと思っています。
双極性障害は治さなきゃいけないものだと思ってきましたが、今はどちらかというと受け入れようとしています。必要なものだとさえ思っているんです。
自分の感情を認めるのに苦労している人がたくさんいると思います。僕にもそういう時がありました。僕もそうなんです。でも結局、人生は続くんです。目の前にあるんです。
だから、ようこそ。



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