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松代大本営跡を訪れる旅〜沖縄戦の理由を探しに長野へ

前回の沖縄旅行をきっかけに、沖縄戦が長期化した理由を探ることになった。現地の資料館ではその理由がぼんやりとしか説明されていなかったからだ。

家に帰ってから本や新聞で具体的な要因を調べてみると、松代大本営という場所がキーワードとして浮かび上がってきた。今回の旅の目的地である。ここでは、文献を使って調べたこと、現地に行ってわかったことなどを整理する。

松代大本営とは

戦時中に政府の中枢機関と天皇御所の移転先として掘られた地下壕である。それは長野県北部にある松代町(1966年に長野市と合併)にある。

建設が開始されたのは1944年11月。太平洋戦争末期に戦況が悪化し、同年の夏にサイパン島が陥落すると、米軍は航空機の燃料を途中で補給せずとも本土に到達できるようになった。米軍からの空襲を避けるために天皇と政府の疎開は急がれた。

大本営移転計画は極秘で、終戦までその実態が世間に知れ渡ることはなかった。政府はその計画を松代倉庫工事と称し、日本国民にも米軍にもバレないようこっそり進めていた。

なぜ松代なのか

東京湾から離れていて、安全性の高い場所という理由から選ばれたのが松代だった。さらに細かい理由は以下の5点である(青木、1997)。

①東京から離れていて本州の最も幅の広い地帯、信州にあり、大本営地下施設の近くに飛行場がある。
②地質的に硬い岩盤で抗弾力に富み、地下壕に適する。
③工事に都合のより広さの平地があり、地下施設を建設するだけの面積が確保できる。
④施工面から見ると、長野県にはまだ比較的労働力がある。
⑤信州は人情が純朴で、天皇を移動させるのに相応しい風格、品位があり、信州は神州に通じる。

青木考寿『松代大本営 歴史の証言』より

青木(1997)は⑤の条件について、「信州は神州に通じる」といった語呂合わせ(根拠にもならない根拠)に依っているところに、この頃の軍部の人びとの一種「神がかり」的な非合理さがみられると分析している。

松代大本営建設の目的とその変容

さらに、青木(1997)は松代大本営を考える場合、最も重要な問題は「大本営をなぜ移動させるのか」だと主張している。

松代大本営建設の目的は時期によって変化している。当初の目的は、米機の空襲を避けて大本営の安全を守るということ。建設を命令した当初政府は、東京が戦場になれば天皇は思い切った作戦ができなくなると考えていた。

しかし戦局が急速に推移すると、その目的は「国体護持」へと変化した。これ以上戦争を継続して共産革命が起きれば、それと相容れない絶対主義的天皇制を存続するのは難しくなると考えた政府は、天皇が国のトップであり続けるための安全な場所を確保しようとした。

つまり、「国体護持」のために戦争が始まり、「国体護持」のために戦争を終えたということになる。その文脈において、松代大本営は日本の戦前と戦後の結節点に位置する重要な戦跡(青木,1997)だといえるだろう。

沖縄戦と松代大本営の繋がり

巨大な地下壕はわずか9ヶ月でほぼ完成した。実は、政府は松代大本営が完成するまでの時間を稼ぐために、沖縄戦を長期化させた(といわれている)。アメリカ軍をなるべく長く日本の最南端に留め、関東への攻撃を遅らせる作戦だった。

そう、沖縄戦が長期化した理由は長野にあったのだ。

要するに、松代大本営が完成するまでの間、沖縄は戦争を続けるしかなかった。その証拠に、沖縄戦で指揮をとった牛島満司令官は、6月21日に政府から松代大本営完成の知らせを聞き、翌日22日(沖縄慰霊の日の23日と誤解されることが多い)に自害した。松代大本営完成の直後、沖縄戦は組織的な終焉を迎えることになった。

「幻」の戦争遺跡

しかし、天皇が実際に松代大本営に移り住むことは一度もなかった。1945年8月上旬、移動の目処も立っていたが、日本は原爆を2回落とされ、終戦を受け入れざるを得なくなった。東京での終戦宣言が急務となった。

掘った「だけ」だった。

天皇は戦後、全国巡幸で長野を訪問した際に「この辺に戦時中、無駄な穴を掘ったところがあるというが、どのへんか」と知事に尋ねた。

この地下壕を完成させるために、多くの人が強制労働させられ、その間に沖縄では何万人もの人が命を落としたというのに、地下壕は誰のためにも使われず、その歴史はなかったことになっている(もちろん、様々な見解があるだろう)。

これが、沖縄で感じた違和感だったのかもしれない。あれほど多くの市民が殺された理由は、なぜか遠くぼんやりと見えなくなっている。それは、沖縄戦の背景にある歴史が「幻」になってるからではないか?

松代大本営は、「幻」だからこそ歴史的に非常に重要な場所である。誤解を恐れずに言えば、「幻」であることが松代大本営跡の面白さだと言い換えることもできそうだ。

松代大本営跡の公開・観光地化

こうした歴史を知っている人って多いんだろうか?大学受験で日本史を選択したりすると勉強するもんなんだろうか。

長野県で生まれ育った私は、松代という地域は知っていたが、恥ずかしながら地下壕の存在は知らなかった。ましてや、松代と沖縄の繋がりなんて想像もしていなかった。

歴史上は「幻」の松代大本営だが、実物の地下壕や御所は約80年の年月が経った今もひっそり佇んでいる。観光客に公開しようと活動を始めたのは、地元の高校生だった。それから、だんだんと活動は広がり、1989年から一般公開が始まった。今では長野市観光振興課の管轄になっている。

まずは入口から

実際に行ってみた。誰でも無料で地下壕に入ることができる。まず入り口の隣には祈念碑が建っていた。劣悪な環境下での危険な作業によって命を落とした人も少なくない。そのうちの8割以上の作業員は朝鮮人だったことや慰安所が確認されていることから、今では強制連行という文脈で語られることも多く、批判されることもある。

松代象山地下壕の入口
朝鮮人犠牲者を追悼する祈念碑

さらに松代大本営の保存をすすめる会によれば、当時の宮内庁は「天皇は生身なので万が一のことがあっても三種の神器は不可侵なので、安置する場所を別に作らなければならない。その『賢所』は御座所と伊勢皇大神宮を結ぶ線上に南面しなければならない。しかも『賢所』の掘削は純粋な日本人の手によること」と念押ししたという。強制連行されて働かされた朝鮮人に対する民族差別。言葉にならない。

薄暗い地下壕の中

地下壕のなかには、たくさんの穴が掘られていた。ゴツゴツと硬くて重そうな岩に穴を掘るのはどれほど大変だっただろうか。ここには政府省庁の一部、日本放送協会(現NHK)、中央電話局(現NTT)が移動してくる予定だった。実際に入ってみるとあまりの広さと迫力に圧倒された。もしもここに行政が移動してきていたら、戦後の松代の歴史は大きく変わっていたんじゃないかと思った。

地下壕の中の様子
ロッドを使って掘られていた

天皇が移り住む予定だった御所

地下壕から2キロほど離れたところには、天皇が移り住む予定だった御所がある。実際に覗いてみると、思っていた何倍も小さくとても質素に見えた。その様子からは、敗戦を目の前にした当時の政府の余裕のなさまでも感じられた。

天皇が移り住む予定だった御所
御所の中の様子

それでも、当時到底手に入れることにできなかった最高級の木材が使われていたことがわかっている。その証拠に、施設の用途を明かされてなかった作業員でさえも、運ばれてきた木材のあまりの質の高さに、松代に天皇が来るのではないかと勘づくほどだった(青木、1997)。

この地下壕から戦争を見つめる

長野県の高校には、沖縄に平和学習へ行く前に、事前学習として松代大本営を見学する学校もあるらしい。これこそが歴史を学ぶということではないだろうか。加害と被害や、個人の痛みと国家の構造的な視点から歴史を多角的にまなざすってとてもいいなと思った。

歴史や文化を直接見てみたいと思って、私たちは旅に出る。でも、もちろん現地に行けば全てが分かるわけでもない。というか、1つの場所で完結する歴史(物語)なんて少ないんだろう。場所と場所の繋がりを探してみる旅もとても面白いなと思いました。沖縄旅行に続く長野旅行もこれでおしまい。

これからも学びが続いていきますように。

おわり!


【参考文献】
・松城大本営の保存をすすめる会『新版ガイドブック 松代大本営』、2006年、新日本出版社
・青木孝寿『松代大本営 歴史の証言』、1997年、新日本出版社
・Hatena Blog
https://scanner.hatenablog.com/entry/20161020/1476934976
・信州松代観光協会公式HP
https://www.matsushiro-kankou.com/spot/spot-645/

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