得られることができて、それを選び、捨てることもできること

 ハンチバックと言う小説を読んだ。ハードカバーであったので大学生でバイトが資金源の僕には少しためらわれたが、買った。Suicaに少し余裕があったので勢いで買った。ハンチバックとは脊椎上部が異様に湾曲しているため背中が丸くなっている人だ。
 身体的障害者が主人公であった。読んでみるとハンチバックの方のリアルな生活が描写されていた。死に物狂いで本を読んでいた。その中で電子書籍が普及してきた中で未だに紙の書籍に固執する健常者に向けての強烈な皮肉が効いた文章があった。僕の場合は電子書籍での読書の場合、少し性的な描写があった際におそらくYahoo!を開いてしまい、性的なものを開放してしまう。だから、それを防ぐために紙の本での読書に固執している。
 しかし、その健常者に向けての皮肉には皮肉以上の感情がさらに上乗せしてあるように思えた。それは憧れとはまた違うような違わないような。
 
 健常者の中には何種類かのヒエラルキーがある。一番わかりやすいのがお金を稼ぐ額、収入によるヒエラルキーである。収入が高い者から見て低い者は収入が高い者へ憧れを抱く。そして、その憧れは真っ白のインクの中に黒や赤のインクを数滴たらしたように徐々に混沌としてきて、いずれ真っ白なインクが赤黒くなってしまうように怒りや恨みに変色していってしまう。そこにはもう憧れと言う希望的な感情は残されていない。結果、収入が高いものを蹴落とすような、もしくは自分たちの階層に引きずり落とすような行動を取る。これは日本だけの習慣なのか分からないが、これが日本の義務教育が生んだ、誇り高き日本人の所業であることは間違いない。
 ただ、健常者であり収入の低い者には収入の高い者になれる可能性は大いにあったことも間違いない。健常者で生まれてきた以上そして資本主義の日本で生まれた以上、得られるものがあって、その得られるものを選ぶことができて、捨てることもできる。おそらく収入の低い者、そして僕も捨てるものが圧倒的に多かったのではないかと思う。勉強、野球、恋愛、社交性、読書、経済、政治、健康、結婚、オシャレ。
 
 ハンチバックにあった健常者への皮肉には得られるものを得ようとしないで、常に捨てることを選ぶことができるそして、捨てるものが多い健常者への嫉妬が含まれていると思った。本の中の主人公は得られるものが健常者に比べて圧倒的に少なかった。得られるものが少ないということは選択肢も少なくなる。そして、捨てるものも少なくなる。その選択肢でしか生存していけないから。
 そして、障害者に対しての選択肢は一気には増えない。

 これを書いて、この世にはそういった人たちもいるんだから、得られることができて、それを選べて、捨てることもできることに感謝して、得られるものはすべて得ようとしようぜ!とは言いたくない。なぜなら少なくとも僕は健常者で生まれたくて生まれてきたわけではないから。たまたま健常者で生まれてきた。もっと言うとこの世に生まれたいっ!と思って生まれてきたわけではないから。
 ただ僕は健常者に生まれた有効性をフルに使って生きていく。得られるものが100あるとしたら、99を捨てて、どうしても譲りたくない、俺のモノにしたいと思えるような1を選ぶ。そして、その1を追い求め続けてると捨てたと思っていた2か5か11かのどれかを勝手に選んでいて自分のモノになってたりして。

 こういった楽観的な思考も選んで捨てなかったモノなのかも。
 

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