ジョーカー雑感
※めっちゃジョーカーのネタバレがあるので気を付けてください
なんとね、七億年ぶりくらいにアニメ以外の映画を見に行ったんですよ、圧倒的快挙。
近場に映画館があることが判明したので一回くらい行っとくかの精神で話題作スタンプラリー回収の気持ちで見たんですけど、まあ合いませんでしたね。
というのも、明らかに自分はこの映画のターゲット層にいないなーと感じる部分が二つあって、まず俺自身実態はどうあれ「持っている側」のメンタリティで生きているので単純に弱い側の気持ちをあんまり汲めないんですよね、今回は主人公が圧倒的に社会的弱者なのでそこから既に入り込めないというのが一点。
もう一点が、俺は暴力が致命的に苦手なんですよね……。
別に虐待されていたとかいじめられていたとかそういう悲しい過去があるわけじゃなく、体が小さいので暴力沙汰になったとき圧倒的に不利なのでやりたくねぇ~という気持ちが大部分なんですけど、とにかくヴァイオレンス行為が苦手なんですよ。
まあなので合わなかったは合わなかったんですけど、物語の中にある主題と構造についてはなかなか興味深いところがあって、自分なりに考えをまとめるために適当に打鍵しているわけですよ、サルもいつかはシェイクスピアを紡ぐ日が来るかもしれないですからね。
まあそんなこんなで本編の話に入るんですけど、ジョーカーってどこまでいっても主観の物語だったと思うんですよ。
普通映画って観客がいることを前提にしていて、その第三者の視点(物語の鑑賞はできても絶対に干渉はできない立ち位置)から進むじゃないですか、だからそこに描かれているものって絶対的事実じゃないといけないんですよ。
でもジョーカーは隣人とのラブロマンスが全てアーサーの妄想だったように、正しいと思っていたことが突然ひっくり返される可能性を孕んでいたわけで。
これは突然精神異常者に射殺されたり民衆が暴徒と化したりする、一瞬で平和が足元から崩れていくことに対する暗示の要素もあると思うんですけど、どちらかというと後述の「お前らにはどこまでが俺にとっての真実かは分からない」という話に繋がっているような気がするんですよね。
ある物語の最後のシーン、最後の台詞というのはその作品を象徴していると思っていて、今回の場合それはアーサーの「理解できないさ」になるんですけど、ジョーカーという作品はおそらくこれが全てなんですよね。
作中でアーサーが語るように、第三者(作中のモブだけでなく視聴者も含む)から見るとアーサーの人生は喜劇なんですよ。
もし彼が本当に”コメディアン”であったならそれは我々を笑わせている結果なのですが、実際は笑われているだけのピエロに過ぎない。
そんなピエロを嘲笑う側の人間から与えられた名前がジョーカー、つまりはジェスターなのはなかなか皮肉が効いていて好きですがそれはさておき。
そんな状態なので彼は自分のことを他人は理解できない”と思っている”わけで、ここが物語の骨子なのかなと。
理解できない、お前らには分からない、これが指すのは「人は他人を理解できない」ではなく「自分は誰からも理解されない」なんですよ。
この二つは天と地ほど違うんです。
さて、合的無意識、仮想敵、見えない何かと無限に不毛な闘いを繰り広げるでお馴染みの俺のことですから、一応目的をもってジョーカーを見に行ったんです。
もはや誰が言っていたのかも本当に言っていたのかも分からないのですが、ジョーカーってなんか共感の作品っぽかったんですよね、前情報では。
誰もがジョーカーになりうるとか自分の話だったとかそんな感じで。
ここまでの所感をまとめた上でこの感想を見ると、まあまあ死ぬほど的外れだなーと。
解釈に正解はないので一概には言えませんが、ジョーカーを見たあとの感想としては「分からねぇ~」がいいと僕は思っていて。
だってそうじゃないですか、「理解できない」作品を「理解している」視聴者、いったい何者なんだ……ってなりません?
どこまでも主観の物語だからこそこれはアーサーにしか分からない話で、それに対して”自分”を照らし合わせるのは野暮じゃねえかなあ。
ペンギンは空を飛べないのに「羽があるなら飛べるでしょ」とか言ってるレベルの暴挙ですよ、「理解できない」ものを「理解できる」と言い張るのは。
まあなんでこの悲しいすれ違いが起こるのかというと理解と共感の履き違いだとは思うのですが、一方的にアーサーを理解した気になる行為は外形としてアーサーの発作的な笑いに対し精神病など存在しないと言い切る作中のモブ、ジョーカーの理念を旗印に掲げ暴動を正当化する群衆と同一のものであることだけは”理解”しておかないといけないと思います。
そもそもアーサー自身が「人は他人を理解できない」ということを理解していないんですよ。
立派な証券マンも人気の司会者も自分のことを笑いものにする悪だと決めつけている、本質を分かった気でいるんです。
そういう意味ではアーサーを「分かった気でいる」視聴者はアーサーたりうるのかもしれませんが……。
理解できないということを理解していないが故に、自分だけが他者から理解されないと思い込んでいる、ジョーカーになりうるのはそんな人なんです。
で、今回それに当てはまるのはそのまま「自分がジョーカーだったかもしれないと思った人」なんですよ。
自分はアーサーの気持ちが分かる、自分も誰からも理解されない、そう思っている人たちです。
でも悲しいことにこの人たちはジョーカーにはなれません、何故ならこの作品は「理解できない」ように作られていて、「誰もアーサー、ひいてはジョーカーにはなれない、何故ならお前らには理解できないから」という構造だからです。
それを理解できる人間はジョーカーにはなれない、理解した気になる人間もジョーカーにはなれない、最強の構造です、まさに無敵の人。
まあ何が言いたいのかというと、もし本当にジョーカーが現れたときそれに煽動されるような人が可視化されてしまったことがこの映画の功罪かなーというのが結論というか雑感ですね、おわり。
主題がぶれるので今回は触れなかったけどピエロマスクをかぶった途端警官に暴行を加える群衆からインターネット社会への警鐘を感じたりもしましたがそれはそれ。
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