電脳オタクは甲子園の夢を見るか

 突然ですが皆さん、本日発売の八月のシンデレラナインミニカバーアルバム、「あの夏の記録」はもう買いましたか?
 買ってない、では買ってから戻ってきてください。
 はい、買いましたね、ではもう聞きましたか?
 聞いてない、では聞いてから戻ってきてください。
 はい、聞きましたね、それでは本題に入っていきます。
 
 皆さんはこのアルバムを聞いてどう思いましたか?
 カバーアルバムですから収録されている曲は実際に存在するものですし、人によっては懐かしいなと思ったり、あるいは世代じゃないけどいい曲だなと思ったりすると思うんですよ。
 で、ここからは懐かしいなと思った人の話になってしまうんですけども、そのあとは思わずその曲を聞いていた頃のことを思い出してしまいますよね。
 ああ、あんなことがあったな、そんな時期もあったな、曲を通してあなたの「あの夏」が蘇るわけです、まさに「あの夏の記録」。
 だから一見「あの夏の記録」というのは我々視聴者に向けられた言葉にも思えるんですけども、ちょっと考えるとそれだけではないことが分かります。
 というのも、カバーアルバムが発売されたことで、ハチナイの世界にもいきものがかりがいて、岡本真夜がいて、渡辺美里がいて、米米CLUBがいることが明らかになった、なってしまったんです。
 なんとあの世界、我々の世界と地続きなんですよ。
 そうすると当然、時間の経過とともに彼女たちの夏もいつか「あの夏」に内包されてしまうんですよね。
 20年後や30年後に有原翼たちがこのアルバムを聞いて、野球を全力で楽しんでいた「あの夏」を思い出す時が来るかもしれないんです。 
 我々にとっても彼女たちにとっても、このアルバムは「あの夏の記録」たり得るんです。
 ここで彼女たちの世界は我々の世界と同一化し、更に未来への奥行を得てしまったわけですね。
 これからも世界は続いていくわけです。
 で、ここからちょっと何言ってるのかなこの人みたいになると思うんですけど、「あの夏の記録」を繰り返し聞いていると、なんだか自分自身が有原たちと同じ「あの夏」にいたような気持ちになるんですよ。
 有原翼たちと同じ歌を聴いて育ち、同じように想いを乗せて、照り付ける太陽の下、同じ夏を過ごしていたような錯覚を覚え始めるんです。
 それはグラウンドだったかもしれないし、アルプススタンドだったかもしれない、あるいはひまわり畑だったかもしれないけれど、それでも”僕たち”は確実にあの夏を共有していた……ような気になるんですよ。
  「あの夏の記録」が、「あの夏の記憶」になるんです。
 記録が記憶に変わったとき、僕は一つの夢を見ました。
 画面の向こうでアニメを見ていただけの、太陽とは無縁な見た目と不要なまでに肥大化した自意識だけを持ち合わせた電脳世界でしか生きられないようなオタクが、あの夏確かに有原たちと一緒に甲子園(厳密に言うと違いますが)を目指していたんです。
 これは恐ろしいことですよ、ハチナイは記憶の改竄まで行うようになってしまったんですから。
 今はまだ無理ですが、ハチナイはそう遠くない未来、癌に効くようになるのかもしれませんね。

 ところで「あの夏の記憶」まで行き着いたとき、他に連想できる曲がありますよね。
 そう、「八月のメモリー」です。
 「八月のメモリー」はハチナイのオリジナルソングで、我々の世界には存在しません。
 いえ厳密には存在しているのですが、カバーソングと同じニュアンスで存在するわけではないということです。
 そしてこの曲の存在が、ギリギリまで肉薄した彼我の世界の境界を明確にします。
 「泣き出しそうな夕焼けが 僕らの背中を押した 終わらない夏休み」という歌詞を見てください。
 お判りでしょうか、”僕たち”が共有している時間は「あの夏」だけなんですよ。
 彼女たちは作中で九月を迎え、八月が終わってもなおシンデレラとして輝き続けていることを証明して見せたわけですけども、「あの夏」にしか存在できない我々はいつまでも八月に取り残されたままなわけです。
 八月三十一日から抜け出せない、終わらない夏休みです。
 彼女たちは歩き続けます、そしていつかは我々の目の届かないところまで進んでしまうでしょう。
 でもそれでいいんですよ、彼女たちは前を向いて歩くからこそ美しい。
 ただそれでも、共に過ごした「あの夏」を思うことくらいは、許されてもんじゃないでしょうか。
 そんなことをね、思いました。おわり。


 いやこれアルバムの感想じゃねえだろなんだよこれ。
 


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