物語についてのメモ

デイリーポータルの記事の登板週でした。
https://dailyportalz.jp/kiji/means-to-teach-face_to_face
Zoomの授業と対面の授業のちがいってなんだろ? というこの記事の結論としては人は目の前にいる人から「物語」を摂取してきた、だから「物語」は対面が一番インプットしやすい、ということだった。

サピエンス全史ブームからもそう。ホモサピエンスは象徴化や物語化できたから集団でまとまれてネアンデルタール人に勝てたと。

ちょうど最近読んでた佐々木中さんの『アナクレタⅠ』にも物語の話が出てきた。メディアの登場によってお前達固有のものはなくなって、みんな取替え可能になった、唯一あるのは死だ、死こそが自由だ、その死を民族(ここでなんで急に?となるらしい)に還元しようではないか、みたいなことをハイデガーが言ってるらしい。そしてそれはナチズムでもある。否定しないといけないんだけどそれって物語が強くてみんな取り込まれてしまう、という話だった。

そういえばナチズムは服装もかっこいいな。(物語が強い=かっこいい)ということなのかも?

ハイデガーの言説に対抗するにはブランショという人が言ってる「人は死ぬ、もれなく死ぬ、でもそれって本当なの?」って言説で対抗したらいいけどこれ物語弱いんだよな~、でも物語は弱くていいんだよ、ベケットもジョイスもアンチクライマックスだよ、みたいなことが書かれている。(ジョイスといえば狂気の文脈の本でも最近出てきた。アンチ物語と狂気関係あるのだろうか)

岸田賞をとるような演劇作品とか見に行くと、なんでこんなにつまらなくしてるのだろう? と思うこともしばしばだけど、ああそうかこれはアンチ物語ってことなのかも。とやっと思い当たった。

物語っていうものを相対化というか物語から物語性を切り離して考えるっていうのが最近気になっている。

さっき縄文時代の話を読んでて、なんで写実的に動物を描かないんだってみんな思うだろうけど、人間にはレトリックが先にあって、写実っていうのは科学とかが進んでやっとできるようになった後のものだそうだ。まずレトリックがあるんだねーほうほうほう。縄文土器をいっぱい並べてなにか感じ取るのが物語の最初の方なのかもしれない。

物語の強すぎる例としてコロナ禍で気になっているのが「#想像力で世界を救え」というハッシュタグだ。世界各国のクリエイターさんたち、手洗いとかソーシャルディスタンスとかをなにか楽しく啓蒙してくださいね、という運動らしいのだが日本ではこんなハッシュタグになっている。

これはどうやらGOという広告会社の三浦なんとかさんがやっているらしくてその方の著書のテーマが想像力であることもあるようだ。そしてこの三浦さんの文体がものすごく檄文、物語性が強い。ああこの感じあれだ、サマーウォーズとかヤシマ作戦だ~とか盛り上がってたあれだ、と思って。かんたんにいうと「やだなあ」なんですけども。プロパガンダだからやだっていうわけでもない、ような気もする。

左利きのエレンとかもそうなんだけど物語すぎる物語が気になってたのもこの文脈かなと思う。ああそれは「バラードばっかり歌うなや」に近いのかもしれない。徳永英明のアルバムとか「3分で泣ける話」とかああいう打算が見えるもの。でもそれも物語には物語性、ドラマチックというものがあるってことを気づいてない人向けのものではないか。

物語性というのが気になっている。物語から切り離されたなにかエッセンスみたいな状態が気になっている。

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