見出し画像

居心地のよさ = ドライさ

人といると大抵は疲れてくるものだけど、
人といても、1人のときのように居心地がいいときがある。

1人でいると休まることが多いけど、1人でいるとかえってモヤモヤして心が晴れないときがある。

居心地の良さって何で決まるんだろう。

一緒にいて居心地がいい人

こんな小見出しをつけてみたが、「居心地がいい人」というのが存在するわけではないと思う。
一緒にいて居心地がいいことが多い人とも、ギクシャクするときがあるし、知り合って間もないころは居心地がいい人ではなかったこともあった。
ただ、総じて言えることは、「飾らずに接し合える関係性」であることが大事そうだ。

手ぶらで手土産を持たずに家に来てくれるとか。
忙しいときには、私とのLINEでの雑談を放置しているとか。
生活や子育てにおける不衛生な一面をさらけ出し合えるとか(「シーツは何か月に1回しか洗わないんだよね」ってぽろっと言うようなこと)。
外食のときに取り分け役不在で各々勝手に食べ進められたりとか。

こういう飾らなさがある関係性においては、自分をつくる必要がないし、つくられている感覚もなくて、疲れない。
「疲れる」「疲れない」って曖昧な指標のようで、すごく素直な、シンプルな、ストレスのバロメーターだ。

1人でいても居心地が悪いとき

翻って、1人でいても疲れるときがある。

SNSで、子育ての「べき論」に一定以上触れすぎたとき(例えば、全て弱音吐かずに完璧にできないなら、はじめから子どもなど産むな、というような)。
1日を振り返り、「今日はこれしかできなかったな」とできなかったことに目が向くとき。
忙しくて、好きなことをする時間をつくれないとき、またはその気力が湧かないとき。

もっとこうしなきゃ、と、ありのままの自分にダメ出しをしているときは、1人でいても消耗する。
また、疲れすぎていると、どうしたら自分を癒やせるか見失いがちで、結果、自分で自分を癒やせないことをも責めてしまう。

一緒にいると疲れる人

これには二通りある気がする。
1つは、単純にその人との相性が合わないこと。
もう1つは、相性自体は合いそうなんだけど、シチュエーション的に、飾らずにはいられない状態にあること。

前者は、私にとっては、例えば、「べき論」をナチュラルに押し付けてくる人。
「普通」という言葉をいとも簡単に使ってしまったり、「〇〇しないなんてヤバい」と安直に相手を否定できてしまったりする人。
人間はコロコロ変わる生き物なので、余裕がなくなって一時的にそうなることもあるけど、デフォルトでべき論が張り付いている人は、オノマトペで言えば「ねっとり」「ねばねば」している。
私はちょっと苦手。

後者は、例えば仕事で接する人。
仕事の間柄でここまで聞くと踏み込みすぎかな、とか、ビジネスシーンなら最低限こういう言葉遣いにしないとな、とか、あくまで仕事で接する人という大前提があると、一定以上の距離を保つことが求められる。
あとは、久々に会う人。
久々すぎて、自分の中の飾らない部分までさらけ出せるほど話す時間がない、とか(例えば、数年ぶりに結婚式で会った友達同士で、シーツの洗濯頻度の話にはならない笑)。
久々のお泊まりで、身体はもう眠いけど、もっと話したくてつい夜更かしになるとか。
このパターンは、「疲れない」わけではないが、時により、心地よい疲れをもたらしてくれることもある気がする。

居心地の良さって、案外ドライさだと思う

ドライの対義語はウェットだろうか。
私に言わせてみれば、「ネバネバした感じ」は、居心地の良さの対極にある。

ドライというとなんだか温かみがないように感じるけど、
人は、会う頻度や時間が多ければ多いほどいいとか、
そういうものでもない。

話したくないことは話さなくてもいい。
接点がなくなったり、多忙になったりして、無理しないとその人と会えないような状況になったら、そこでぱたりと会わなくなってもいい。
「べき論」から外れても、自分で自分のことをまっすぐ認めていい。

そういう、一見冷たく見える「飾らなさ」が、生きている上での居心地の良さに繋がっていると思う。

まだ生後4ヶ月の我が子にも、時が来たら、「友達には優しくね」「礼儀正しくね」と伝えつつ、
その先で、優しくする価値がないな、と切り捨てる相手がいてもいいこととか、
礼儀正しくできない・したくない自分を認めてあげてもいいこととか、
そういう豊かさを知ってもらえたら嬉しい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?