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パチンコとの出会い①

どうもディノです。

私がパチンコの発信をする中、なぜそのような思考になったのか?なぜ最初から勝ち組の椅子に座れたのか?ヒストリーを語っていこうと思います。どうぞお付き合いください。

※思い出した所で加筆・修正入ります。ご了承下さい。

1989年

出会いは中2でした。当時の友人と3人で池袋のお店で羽モノを打ったのが最初でした。

当時は100円で玉を借りれたので、子供のお小遣いでも一勝負できる時代。よくある両替機と間違ったというありがちなエピソードではなく、しっかり興味を持ってパチンコ店に赴いたのです。

この100円で運よく大当たり。箱の半分ほどにサラと入った出玉で1400円ほどの成果をあげました。当時から羽は投資も少なくて済むという、情報を得ていたので迷いなくそれができたのでしょう。

ともかく私のパチンコ初戦は勝利スタートでした。

しかしそれ以降、積極的に手を出すことはなく、学校生活を楽しんでいました。やはり中学生なので大金も持ち合わせておらず、お金の動きが大きいパチンコが怖かったのです。

1990年

時は過ぎ、中3になると

「パチスロはモーニングがあるから1000円あれば良い」

という話を友人から聞きます。しかもやんちゃな台でとんでもない連チャンをする可能性があると。(トライアンフなど思い出にある)ただ私はサンドに1000円を入れるのがどうしても抵抗があり(一度に1000円もメダルに交換するのが、庶民の遊びに見えなかった)パチスロはやらず、友人に付き添い、見ているだけでした。

この頃のパチスロは最初の1000円、いや最初の1ゲームがアツく、全身全霊を込めてレバーを叩き、1ゲーム目から「7」を狙っていました。いわゆる「モーニング」ですね。

7が数ゲーム後にはまた揃い、箱に移す。この作業に憧れましたが、何せ図柄が当時は全く見えない。こんなの見えるようになるの?と思っていました。

ここで一つ、私がパチンコに関して強くなった理由があります。

当時から駅前を主軸にパチンコ店は多数存在していました。ただどの駅も駅前という条件なら、2、3店舗がいいところでした。

しかし私の住んでいるところは違いました。ローカル駅であるにもかかわらず、駅前に11店舗もパチンコ店が存在していたんですね。

近くのターミナル駅ならわかりますが。まあ、そこも30店舗は東西にありましたから、いかに店選びが常にできる環境だったか想像できるでしょう。

勝っている方はおわかりでしょうが、パチンコにおいて何が一番大切か?

それは店選びです。技術や知識など二の次です。なぜなら優良店で稼働が出来なければ、腕を振るうことができないからです。良い店、良い台がある前提で技術、知識が役立ちます。

駅前に多数店舗が存在したおかげで、移動時間もかからず(何駅も移動して稼働するのは正直、誰もが面倒と感じている)店の癖、同じ機種でも店ごとの釘の差や客層など、体に染み込ませたのです。

誰に教わったでもなく、パチンコでの勝つための王道である立ち回り術を、自然と身に付けたのは大きかったです。

今では多くの専業が移動時間を掛けても優良店探しをします。1つの店では毎日のように還元する体力がないからです。


1991年〜1993年

この頃はパチンコ連チャン機全盛。朝から行くメリットも盛りだくさん。新装開店もお祭り騒ぎでした。どの店も他店と差別化を図るために独自のサービスかありました。今のようにジュース配るサービスじゃないですよ(笑)

今ほどネットも普及してませんでしたし、情報は足で稼ぐ時代でした。

この頃までに学んだことは

交換率によって釘の良し悪しがある

店独自のサービスがある(タイムサービスや無制限モーニングや打ち直しなど)

新装は本気で出す


店を何店舗も回っていると段々と見える景色が変わってくるんです。同店舗でウロウロしてる分には、その店の情報しか掴めない。

店ごとの客層、客が増える時間、並びの多い所、人気の台など、機種の知識も併せて頭に入れておけば自分の稼働MAPが出来上がります。

朝の狙いに漏れても、二の矢・三の矢を持つことで稼働を有意義なものにできます。

そしてこれが身体に染付くと、適当に座ろうという意識が薄れます。

「あの店の様子はどうかな?」

そんな折、新装開店の情報にありつけたり。

ともかく高校生にしてパチンコは勝てるものと感じていました。

そして高校を卒業し大手を振ってパチンコできる年齢になりました。

次回は一人暮らしも考え、本気で専業でやる時代の歴史をお伝えします。

この時代にお世話になった台。

綱取り物語・プリンセス物語など



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