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ミルクパズル

やは〜、Cathです。
なんかとりとめもない話がしたい。そう思ったのでゆるゆると書きます。
お付き合いいただける方はどうぞ。

早速ですが、みんなミルクパズルって知ってますか?ホワイトパズルって名前で知ってる人もいるのかな。その名の通り、ピースが全て真っ白なパズルのことです。普通のパズルみたいに一つ一つのピースに少しずつ分けて絵が描いてあって、全て繋ぎ合わせたら大きな一つの絵ができる、っていうのではなくて、ミルクパズルは完成しても真っ白。ただの白い板が出来上がる。絵の繋ぎがヒントになる、なんてこともなくて、ただひたすらに形だけで合わせるしかないからとても難しいパズルとしても有名なミルクパズル。苦労して完成させてもただの白い板とか、なんでわざわざ作るの?なんてそんなシンプルな疑問は今日は関係ないので置いておきます。

(ただの白いパズル)

今回はただのパズルの話がしたいわけではなくて、人生ってミルクパズルみたいだなってふと思い浮かんだから、その話をしようと思って。



本題を出したところでまたちょっと別の話をします。いや、全く別というわけではないのだけれど。
人の記憶って、それ単体では成り立たないものだなということを、小学生くらいの時からずっと考えているの。どういうことか説明しますね。
例えば、松本城に行った記憶があるとする。でも自分の中にはただ“松本城に行った”という一つの記憶が独立してあるわけではない、と思う。いつ行ったのか(何歳の時?何年前?)、誰と行ったのか(家族と?友達と?1人?)、どうやって行ったのか(車?電車?)、などなど。そういう周りの関連した記憶と共に存在するものかなって。全ての記憶は何かしらのこれまでの記憶と繋がっていると思っている。そういうことです。伝わったかな。

別の話を出します。
わたしのフォロワーにはSpotifyユーザーが多いから、よくTLに「#NowPlaying」として彼らが聞いてる曲のURLが流れてくる。好きな曲をただ共有する時もあるね。それとは別に、なんとなくみんなでプレイリストを作りあって公開する、なんてこともある。

以前わたしが好きなアーティストとしてスピッツや小田和正、B'z、松任谷由実をあげたことがある。その時一部の人にはかなりの共感を得たのだけれど、よく考えたらどのアーティストもわたしの世代にドンピシャというわけではない。
ではなぜ好きなのか、そう考えたときにわたしの中で答えはすぐに出た。単純に昔から実家にCDがあって、車でずーっと流れていたから、それだけ。
わたしの実家では毎年夏に家族全員で3泊4日くらいの旅行に行っていた。移動は全て父の運転する車だ。お分かりいただけるでしょうか。車で移動する旅行、ずっと車で流れ続ける彼らの曲。わたしの夏の旅行の思い出に付随する曲は彼らの曲なのです。逆も然り、彼らの曲を聞くと夏の旅行を思い出す。夏の旅行以外でも、親の車で移動した記憶と共にあるのが、彼らの曲に関する記憶。
この記憶はわたしの中で繋がっているわけです。

繰り返しになるけれど、記憶は、何か別の記憶と繋がっているからこそなにかをキッカケに思い出せるもので、そうでなければ一生思い出せないものだ、と思う。
過去のわたしの、いろいろな記憶の延長線上に今日の記憶が新しく加わって、繋がって、明日も同じように繋がって、そうして昔の記憶を携えたまま大人になっていくんだと思う。旅行と曲とかいう、一見交わりがないものでも、わたしの中ではちゃんと記憶の繋がりになっていて、他の人にも他の人特有の記憶の繋がりがある、はず。
記憶自体のピースひとつひとつは真っ白で、それ単体ではどうにもならなくて。だけどそれが次第に一つ二つと繋がっていって、大きな真っ白い板が完成した時にその真っ白な板に人生の集大成として何かの絵を描いたら、白かった記憶のピースひとつひとつが無駄じゃなくて、繋がりのある大切なものだったことに気づけるのかな、なんて漠然と思いました。
書いていても支離滅裂でわからなくなってきた。

何が言いたいかというと、ミルクパズルは人生に似ているなって、本題として述べたそれ、それに尽きるんです。


最初から完成した時に浮かび上がる絵が決まっていて、それを完成させるためにひとつひとつをつなげていくのが人生、というより、一見何の意味もないように見える記憶ひとつひとつが繋ぎ合わさったら、いつのまにか自分が望むままに描ける真っ白な板ができてきている、というのが人生なのかな、と。
まだ18年しか生きていない小娘はミルクパズルを見てなんとなくそう思ったわけです。
思考の整理はむずかしい。お付き合いいただきありがとうございました。
おやすみなさい。

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