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明治時代の「時計」と大橋時計専門学校|創業者 大橋善治郎

大橋時計店は明治27年(1894年)、熊本市の旧一本竹町に大橋善治郎が時計店を構えたのがその幕開け。
令和5年の今年で創業129年を数える、日本全国でも歴史を重ねた店といえましょう。

本日は、創業者 大橋善治郎のエピソードを皆さまにご紹介いたします。

修理技術と時計の重要性をみっちり仕込まれた修行先

若かりし善治郎が修行したのは、叔父にあたる迫源次郎が東唐人町で営む「迫時計店」。

迫源次郎は、まだ文明開化のころ、西洋の文物に接し「これからの世に最も必要なのが時計だ」と、その将来性を確信。
長崎に出て時計の修理技術を学び、熊本に帰ってから「迫時計店」を開店。
善治郎は、その「迫時計店」で修理技術と時計の重要性をみっちり仕込まれたのだそうです。

異国の文明がまだ珍しい明治時代。その時代の時計店は、新品の販売はもちろんのこと、修理が売上の大部分を占めており、だからこそ、時計職人として腕を磨くことが大切でした。

明治時代、時計の主流は「掛時計」

その当時の時計店で取り扱うものは掛時計が多く、オーバーホールも掛け時計が中心でした。

住環境も今日とは異なり、家の中に囲炉裏がある時代。
家庭で薪を焚く生活のため、掛時計のムーブメントがススとヤニでべたつくように。
部品は丁寧に分解し、そして洗浄。
文字盤も燻されて黒くなったものは、剥がして新品に張り替えていました。

また、腕時計のオーバーホールは、製造メーカーからムーブメントを仕入れ、時計店でケースに収めて完成させる場合も多かったそうです。

叔父の迫源次郎は時計職人の師匠として、修行に来た善治郎に対し、自身の持つ時計に関するあらゆる技術を徹底的に教え込みました。

そうして時計の組み立てや調整、修理の技術をしっかりと身につけた善治郎は、いよいよ自分の店として、熊本市の旧一本竹町に「大橋時計店」を開業したのです。

大橋時計店の開業、上通への移転

明治27年(1894年)最初に店を構えた一本竹町という地域は、当時の街の中心地。役人、軍人、勤め人が闊歩する好立地でした。

それから24年後、大正7年(1918年)に現在の上通の地に店を移転しました。
それは、将来この上通の地が熊本一の中心街になるだろうとの見通しを立てての対応でした。
その頃の上通周辺には、県庁や公的機関、教育機関が多かったため、役人・学生などが多く訪れたとも言われています。

上通へ移転した当時の大橋時計店

大橋時計学校とは

その当時、時計職人の修理技術というのは修業によって受け継いでいく時代でした。
時計店というのは単なる仕入販売の小売店とは違い、購入後にもアフターメンテナンスで顧客との結びつきが強くなる商売だったとも言えましょう。

時計職人として腕に自信のあった善治郎は、独自の技術制度を確立。

そして、職人の育成に取り組むと共に、弟子たちの将来を支援。修行を積んで技術を習得した弟子には、卒業証書を渡し、職人としての自覚を促し、他地域での独立を支援していました。

多くの弟子を抱え、大橋時計学校と呼ばれていた当時の卒業証

そのようなわけで、時計職人を志す人たちの間では「大橋時計学校」と呼ばれていたそうです。

時計の保証制度を確立

善治郎は、大橋時計店で買う時計について「年に一度の分解掃除」を勧めていました。

年に一度の分解掃除…それはつまり、定期的なオーバーホールのメンテナンス。

そして、年に一度のオーバーホールを行うならば、その時計は15年間時計としての機能を維持するという「保証書」をつけたのです。

「時計職人の育成」や「保証制度の確立」など、創業者 大橋善治郎は時計職人ならではの目線で、独自路線の時計店「大橋時計店」を築いていったのです。

以上、本日は創業者 大橋善治郎のエピソードと、その頃の時計事情をご紹介いたしました。


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