「縋るものがあるということ」群馬教区学生会 髙橋 道宣


私にとっての親神様



辛いと思った時、悲しいと感じた時、無事を祈る時、あるいは人の生を願う時、そんな時にいつも私たちをお助け下さる親神様。お道を信仰する私たちにとって、親神様は心の拠り所であり、人生の支えの様なものであると思います。

目には見えないけれど、必ずご守護下さると信じることで、救われる日があるのではないでしょうか。

私にとってもその存在はとても大きく、人生の大きなふしには必ず親神様がいました。

しかし、 今までの私はその存在を何処か当たり前にあるもの…そのように感じている部分がありました。そんな中、家族での出来事がきっかけで私の中の親神様は特別なものへと変わっていきました。


母の身上




それが起きたのは今から2年前。

母が突然、倒れたのです。病名はクモ膜下出血。発症した場合の死亡率は30%と非常に高く、再出血した場合は50%。一命を取り留めたとしても重い後遺症が残る可能性がある危険な病気でした。私は人生で初めて、人の死を間近に感じました。いつも元気な母が、大好きな母がいなくなってしまうかもしれない。もしもの事を考える度に不安と恐怖で涙が止まりませんでした。自分になにかできれば。そんな事を思っても、私たちに出来るのは無事を祈ることだけでした。

その日の夜、残った家族でお願いづとめとして、十二下りを勤めることになりました。「どうか母をお助け下さい。」と何度も何度も、祈り続けました。「必ず親神様がお守り下さる!」そう信じ、溢れる涙を堪えながら、何度も何度も願い続けました。縋ることしかできない私たちには、親神様がたったひとつの支えでした。



それから数時間後、母の手術が終わり、その結果が家族に伝えられました。母はなんとか無事に一命を取り留めたと。母は出血を起こしても直ぐにその出血が止まり、そのおかげで奇跡的に助かることが出来たそうです。その後も再出血はなく、後遺症も残ることなく、母は退院することが出来ました。

母の今までの得があったのはもちろんの事、家族の願いを親神様が聞き入れ、ご守護下されたことに私は感謝してもしきれませんでした。


縋るものがあるということ




その出来事の後、家族でその時のことについて話をしました。その話の中で父が言った言葉がありました。「縋るものがあるということは、素晴らしいことだ。」

この何気ない言葉が私の中の「親神様」という存在を、特別なもの…に変えるきっかけとなりました。

もし信仰のない人達が同じ状況に立っていたら、なにを頼りに縋るのでしょうか。なにが心の支えとなるのでしょうか。けれど冒頭にもあるように、そんな存在が私たちにはあります。

縋るものがあるということ。当然のようにしていたことが、実は当たり前では無かったこと。たとえ報われずとも、「縋るもの」があるだけで、私は救われていたのだと、そこで初めて気づくことができたのです。


最後に




今まで親神様の行いに対しての感謝ばかりであった私でしたが、大きなふしを経て、親神様自身への感謝も大切なのだと心におさめることができました。

家族や友達が、ただそこにいてくれることが嬉しいように、親神様の存在が今はただただ嬉しいのです。

きっとこれから先にどんなに大きなふしを迎えたとしても、「縋るものがあるとういうこと」

その事ひとつで、乗り越えられるふしもあると私は思います。



21年と半分にも満たない人生の中で、私は親神様から沢山のご守護をいただきました。これからその御恩を少しづつ返せるよう、有意なる用木を目指し、日々の感謝を忘れず、お道を真っ直ぐ歩んでいきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?