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憂鬱への愛着と、傍迷惑な不機嫌と。

1月が終わって、ほっとしている。

年が明けてから、まだ1ヶ月経っていないのか、という気持ちが1月の後半はずっとあった。


1月の憂鬱。


12月の真ん中にクルーズから帰ってきて、お正月休みがあって。日常に戻り始めて。


生理前後のいつも落ち込みかなーと思っていたけれど、月の半分くらい、この感じのまま来てしまった。抜けるタイミングを逃してしまった。


自分の機嫌くらい自分で取れ、人に当たるな見せるなばかやろう、と今まで何度も何度も思ってきた。なのに、沼にずぼずぼ、はまっている。嫌なめんどくさいやつすぎる。そこにいると割と楽で、抜けなくてもいいやと思っている。


しいたけ占いの、2月の「クライマックスの予感」。これ、すごく感じていることだ。


「クライマックスの予感」と言ったら変な言葉になるのですが、「ここにいて頑張っても、ここで私がクライマックスを迎えていくことはなさそうだな」と感じることは、けっこう大事なことでもあるのです



そしてこの言葉も。
https://twitter.com/tshun423/status/1223168650149945345?s=19


でも、これだけじゃないのはよーく分かってる。今回は長いけれど、あまりに慣れ親しんだ感覚ですもの。


辛い「出来事」があっても、すっぽりと忘られるところがある。1日寝たら、ケロリとその出来事については切り離される。ムードだけは残るのだけれど。


自分が経験したことや、周りで起こったことが、自分から切り離されていくような感覚が、中々他の人とは比べようのないものだけれど、割と強い気がしていて。思い出や記憶にあまり頼れないというのは、とても寂しく切なく思うけれど、それによって生かされてきたというか、乗り越えてきたというか、上手くやりくり出来てきた気もしている。


そんなムードの中でも嬉しいものは嬉しく(当たり前か)、どこかにその感覚に向けて「薄情者ー!」と思っている節がある。

フレアにはじまり、superflyでエネルギーチャージをさせてもらってるのですが、「愛を込めて花束を」という曲のこの歌詞の部分には、あまり手放しにイエスと言えない、言いたくなかったりする。

無理に描く理想より、笑い合える今日の方が
ずっと幸せね

わたしは結局、どこかで憂鬱に対して愛着を持っているのだと思う。慣れ親しんだ感覚を否定したくないし、手放したくない。
でもそれは、人様に迷惑かけてやるんじゃないよって話ですけどね。不機嫌の研究しようかな。


社会的なことへの興味や憤りなどは、自分の気持ちの弱さとは、混ざっていたくないと思うし、自信はないけれどそうだと思う。きっと。


こういう状況の中で、行けないなぁと思うものと、割り切って行けるものはどこがちがうのだろう。外的な強制力(予約制とか)もあるだろうけれど、「あ、行きたくないや」「行かなくていいかな」に共通する何か。


随分とお気楽で、好き勝手やらせてもらっていて(それが有難いやら寂しいやら。)たくさん「やらない」「行かない」をした後半でした。


ああ、いい天気だなぁ。異常気象で、手放しで喜べないけれど。空が青い。


月が変わったって、何かを飛び越えたわけじゃなく、ただ1日前に進んだだけだけれど。抜け出すきっかけをどこかに見つけて、こじつけたいと期待している2月のはじまり。

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