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雑感

2024年のodあんま調子よくないな〜という感覚がある。
この感覚を追求してみると、どうも心根の調子がよくない。精神的に参っているという類ではなく。
自分が意図なく為した言動の端々に、「あれ、お前こんな人間だったっけ?」といううっすらとした嫌悪感がある。心の色、ココイロが濁っている。

思えばこの濁色の侵攻はこの数週間に始まったことではなく、ここ数ヶ月、もっと言えば一年以上前から始まっていたと感じられる。
どうして私のココイロはこんなにどぐされてしまったのか?地下鉄に揺られながら2つの複合的な要因に思い至った。

①「あなたの世界ではそうなんですね」
そう言って他者と自分の価値基準に線を引くことを、しなくなった。
この姿勢には功罪あり、実際悪くない変容ももたらしていると信じたい。が、澄んだココイロを保つにはあまりに無防備だ。
社会は、と大きな主語は起きたくないが、少なくとも私のごく周辺のこの街は、やはり思っていた通りに、かつての私なら卑近と断じた道理がまかり通っている。それは金であり性でありステータスであり、ナイーブさを捨てた屈強さである。
今の私はそれを卑近とも崇高だとも思わない。それを掲げる各人がその対極を捨てるに至った葛藤もそこに要したエネルギーも想像できるし、スタンスを定めて一生を全うするのは、なんというか健気で愛くるしささえ感じる、人間という須くちっぽけな存在の愛すべき一要素だとさえ感じる。
だからこそ、そんな姿勢だもんで、素直に人々のスタンスを吸収していたら、京都にいた頃必死に守っていたココイロがジワジワと濁ってしまったんじゃなかろうか。

②守っていたかったココイロの脆弱性/主たるコミュニティの消失と分散
そもそも身も蓋もなく言ってしまえば、「あなたの世界はそうなのですね、私の世界は関係ないです」と言って隔離していた「私の世界」自体、私の強い心根により作り上げられたものではなかったのかもしれない。
結局のところそれは、自分のまわりとの相互作用によって巧妙に作られていた価値観だったのかも。
「私が好意を抱くこの人たちは、私がこのような人間であれば私を信用してくれる」という無意識の打算によって作られたものだったのかも。というか、当時の私はそれすら自覚していて、自信を持ってそれを信条の根拠としていた。明言すらしていた。
それは、「こいつらのことは絶対に好きだ」という前提が崩れないと盲目に信じていたし、そこに緩く流れる慢性的な幸福な時間が最も大切だったからだろう。
ところが、人生の矢面に立ってみれば畢竟人は独りである。
断じて、これまでに好いた人々は今でも好きであり、新しく好きな人間も増え続けている。
しかしながら社会人生活においてそれぞれのコミュニティに費やせるコミュニケーション総量は、学生時代に比して非常に分散する。今まで甘えているとすら思わずにアイデンティティをもたれかからせてきたような、主たるコミュニティは生まれ難い。
さらに、好いた仲間の価値観も変わる。今までは密なコミュニケーションの中で言語化されない同意をとりながら進められていた価値観の変遷が、飛び地でしか観測できなくなる。
そうなると、前述のような貧弱な姿勢により保たれていたココイロは脆くも崩壊する。

これよりは、我は独りにて我を育てるしかない。
自分に嫌われない自分をもってして、「あなたの世界はそうなのですね」と浸透圧を調整しながら、最大限に好いた人々との一生を謳歌していくしかない。
なんとも締まりが悪いが、雑感まで。

金くれ