金曜日のうたうたい

 どうして、あたしは立ち止まったんだろう?
 自分でそんなことを考えながら、あたしはただ、駅前の植え込みの陰で歌う彼を見ていた。
 やっとの思いで仕事を終わらせたあたしは、たった今、最寄り駅から出てきたところだ。何とか潜り込んだテレビ局の、ADのアシスタントみたいなことをしながら、必死に生きる毎日。夢は――いつかプロデューサーになって、小さな日常を丁寧に追いかけたドキュメンタリーを作ること。平凡と言えば平凡で、途方もないと言えばとてつもなく途方もない夢を食べて、あたしは生きている。
 ついさっきまでは、一刻も早く帰って休みたい一心でひたすら足を動かしていたはずなのに。だけどあたしの足は地面に吸い付けられてぴたりと止まってしまった。金曜日の終電間近ということもあって、一杯引っかけた帰りのおじさんや、頬を上気させた――おそらく、お酒に酔っているせいだけでもないだろう――おねえさんが、立ち止まるあたしをゆっくりと、または足早に追い越していく。人影もまばらな駅前で彼はただ、ギターを抱えて歌を歌っていた。夜に紛れて歌う彼に近付く人はいない。そりゃそうかも。だってここはあまり活気のない、ただのベッドタウンの駅だもの。朝夕のラッシュ時に混雑するだけで、彼のような、いわゆるストリートミュージシャンなんて、今まで影を見たことすらなかった。
 それでも彼はあそこにいて、確かに歌っている。
 あたしは引き寄せられるように植え込みに近付いた。彼はあたしには目もくれず、どこか夢を見るような目つきで歌っていた。ギターの抱え方がなんだか不自然で、あたしは不思議に思った。
 味のある、独特な歌だと思った。でもそのハスキーボイスは、どちらかというと――耳に触る声だった。彼はそれを知りながら、それでもなお歌わなければならない理由を抱えているとでも言うのだろうか? あたしは純粋な好奇心から彼の歌に耳を傾けた。
「……」
 彼は歌い終わると、少しだけ顎を上げてあたしを見た。あたしはとりあえず拍手をしてみた。彼は愛想の欠片もない、歌声よりもさらに酷いハスキーボイスで、言った。
「そんな拍手ならいらない」
 あたしは一瞬、頭が白くなって返す言葉もなく彼を見た。そんな拍手? あたし、そんなに心のこもらない拍手をしたんだろうか? あたしは彼に背を向けた。少しこわばったあたしの背中に、彼のハスキーボイスが届いた。
「冗談――。サンキューでした」
 その声は思った以上に温かく――あたしはふいに泣きたくなった。


 あたしはそれから、急速に彼と近くなった。彼はジェイと名乗った。
「……生粋の日本人、ってカオしてるのに、まさか本名じゃ、ないよね?」
 あたしはジェイの隣の植え込みにしゃがみこんで尋ねた。ジェイはにやりと笑う。声を立てずに唇の端を吊り上げるだけの笑い方は、何度見てもジェイには似合っていない気がする。
「イニシャルがJ・Jなんだ、俺。それでそのうちジェイって呼ばれるようになった。面倒だから、俺もそう名乗るようになったんだ」
 J・Jなんてイニシャル、本当だろうか? あたしは半分疑いながら、それでもいいか、と思った。別に本当でも嘘でもどうでもいい。あたしはただジェイの歌を聞くだけで、そしてジェイは歌うだけなんだから。
「ミナトこそ、ミナトって本名なの?」
「嘘言ったってしょうがないじゃん」
 あたしが答えると、何故かジェイはげらげらおかしそうに笑った。それからギターをぼろんと掻き鳴らし、思いつくままに歌う。ジェイはギターを普通とは逆に構える。あたしが最初に抱いた違和感の正体はそれだった。
 ジェイは金曜日の夜になると、この駅前で歌を歌っている、と言った。何時頃から? と尋ねたけれど、ジェイからはっきりとした返事はなかった。
 あたし達は毎週金曜の深夜、三十分くらいの間、駅前の植え込みで共に時間を過ごすようになっていた。そうしなければならないような気さえするほど、あたしはジェイといる時間を、大切なものに感じ始めていたのだ。


 あるとき歌の合間に、ジェイが言った。
「……ミナトってさぁ、どんな男に対しても、そんなに無警戒なの?」
「……は?」
 ジェイはギターで儚げな曲を爪弾きながら、相変わらずのハスキーボイスで喋る。この頃、前よりももっと声がしゃがれてきた気がする。無理な歌い方をして喉をつぶしてるんじゃないのかな?――そんなことを考えていたら、ジェイの鼻先があたしのすぐ顔の前にあって、思いっきりどぎまぎしてしまった。ジェイはあの笑い方で笑って――急に真剣な顔をした。
「俺、悪い病気なんだ」
「は??」
 あたしがジェイの言葉の意味をきちんと飲み込む前に、ジェイは真面目な顔をしたままで、とても自然にこう言った。
「感染(うつ)るよ、コレ」
「えっ――」
 あたしは身構えてしまった。ジェイのたった一言で。ぱ、っと立ち上がったあたしに向かって、ジェイは苦笑しただけだった。
「あ――ごめん、えと」
 あたしはどうしてもその先に言葉をつなげることが出来なかった。どれもこれも言い訳じみて、言ったところでジェイを救いはしないと思った。ジェイは何もかも解っている、そんな表情で、ただこんなことを喋り始めた。
「悪い病気でね、このままだと死ぬんだ」
 ジェイの口から飛び出した「死」という言葉は、まるでジェイの歌詞のように、白々しさを伴って、空虚に響いた。小さく流れるギターの音色は、話の内容に引っ張られるように、とても悲しげに聴こえる。
「肺と喉を手術しなくちゃ、死ぬんだって。でもそしたら二度と声が出なくなっちゃうんだ。だけどさ、俺から歌を取ったら、何も残らないんだよね」
 指はギターの弦に触れて、囁くように曲を奏でる。あたしはもう一度ジェイの隣にしゃがみ込んだ。
「……手術したらいいんじゃないの?」
 ジェイはあたしに目もくれず、黙ってギターを弾いている。あたしはジェイが何をどう感じているのかはっきりと理解も出来ないまま、だらだら喋り始めた。
「だって、死んじゃったら何も出来ないじゃない? それなら手術して元気になった方がいいような気がするけど。声が出ないって――ちょっと想像出来ないけど、ギターがあって曲を作っていられるんだもの、そんなに悲観することないんじゃない? 耳は聞こえるんでしょう? だったら音楽に関わって生きていくことだって、出来るじゃない?」
「ミナトは――」
 ジェイは手を止めると、あたしの顔をじいっと見つめた。
「俺に歌うのを諦めろ、っていうの?」
 傷ついた子供みたいに、ジェイは目をしょぼしょぼさせてあたしを見た。
「俺、歌うことしか出来なくて。ただ、歌えればいいんだ。――前はね、もっといい声だったんだぜ? 信じないかもしんないけど。こんな声になって、バンドも首になっちゃって。そのバンドね――俺をおいてインディーズデビューして、結構いいセンいってんだ。近々メジャーかも、って噂も聞いた。でも俺は、ここで一人で――。手術しなきゃ死ぬ、って言われても、そしたら歌えなくなっちゃうことが嫌で……怖くて。俺にたった一つ残された声を、ミナトは取ってしまえ、って言える?」
 真剣だった。怖かった。ジェイの問いかけはあたしの心にぶつかって、軋んで悲鳴を上げそうになる。
「ミナトには解んないと思う。前にさ――ミナト、プロデューサーになりたい、って言ってたじゃない? そういうのって、考えることが出来る『頭』さえあればどうにでもなんじゃん? 喋れなくても書ければいいし、書けなくても、パソコンとかで一文字ずつ打ち出したっていいじゃん。伝える手段はたくさんある。俺ね、人間が考えることが出来なくなるときって、単純に死んだときじゃないか、って思うんだ。でも、俺は違うよ?」
 ジェイのハスキーボイスが、少しずつ苦しそうにしわがれていくのがはっきりと解った。それでもジェイは、喋るのをやめなかった。
「声がなくなったら、歌えない。曲が作れても、自分で、自分自身で納得するまで歌うこと、二度と出来なくなる。それなのに、簡単に『手術しろ』って、ミナトにどうして言えんの?」
 ジェイは皮肉な笑いを浮かべて、あたしを見た。だけどその笑い方は、悲壮感に溢れていて、もし今のジェイがこれ以外のどんな表情をしてもしっくりこないだろう、というくらいにぴったりだった。それがあたしには、ものすごく悲しいことに思えた。
「――」
 ごめん、と言おうとして、あたしはそれを飲み込んだ。ジェイの気持ちを考えもせずに無責任なことを言って、そしてさらに無責任に謝ることは、とても卑怯だと思った。あたしには、残念なことにジェイの気持ちはあんまりうまく理解できない。あたしから『考えること』を奪うものについて考えてみても、全然ぴんとこなかった。それだけあたしは、幸せで恵まれているのだと思った。
「……ミナトに八つ当たりしたってしょうがないんだけど。でも、ミナト」
「……うん?」
「俺は一生懸命歌ってるんだ。ここが今の俺のステージで。こうやって俺の歌を聴いてくれるミナトに、俺すっげ感謝してるんだぜ? これでも」
 ジェイは再びギターを弾き始めた。あたしはジェイの横顔を見ていた。顔を上げて囁くように歌うその横顔は、闘う一人の男の横顔だった。死と闘うジェイ。それは一般的な言い方をすれば、ぐだぐだ言い訳をして、現実から逃げているだけなのかもしれない。だけどジェイにとっては声を失うことイコール死であって、声を失ってなお生きていても、死んでいるのと同じなんだ。それはあたしにも解る気がする。あたしだって、考えることも出来ずにただだらだら生かされるくらいなら、死んでしまった方がまし、って思う。要するに、そういうことなのだ。――そう考えたら、急に涙が止まらなくなった。どうしてこんなに涙が出るんだろう?
「ミナト?」
 あたしの様子に気づいたジェイが、ギターを鳴らしながらあたしを振り返る。あたしは涙を必死にごまかして、立ち上がった。
「今日は帰る」
「ん」
 ジェイはたったそれだけ言って、また歌い始めた。歌うことでしか生きて行けないジェイは、不器用だけど強いと思った。だけど脆くて、今にも何処かに消えてしまいそうだ。それでも歌うことをやめないジェイのように、あたしは生きてけるだろうか?――真摯に、真剣に。


 あたしはそれからも、金曜日にはジェイの歌を聴きに行き続けた。ジェイの声は少しずつ出にくくなり、聴いているあたしさえ苦しくなった。それでもジェイは歌うことを決してやめようとはしなかった。あたしも、あれ以来無責任に「手術を受けろ」とは言わなくなっていた。あたしに出来るのは、ジェイの歌を聴くこと――ジェイの存在と歌声の証人になること。
 ジェイは決してあたしのために歌ってくれているわけではない――それは少し悲しいことだったけれど、当たり前のこと。誰だって自分が一番かわいい。最後の最後には、自分のことで精一杯になる。ジェイを哀れんでいると思われても仕方ないけど、そんな理由でジェイの歌を聴いていたわけではない。ただ、ジェイの歌を聴いていたかった。少し打算的な言い方をすれば――ジェイのことをきっかけに、生きることと死ぬことについて、考えていたかったのかもしれない。
「ねぇ、ミナト」
「なぁに?」
 歌の合間に、ジェイはそっとあたしを呼んだ。ギターに寄り添うように座り込んだジェイは、すごく苦しそうだ。息があがっている。もしかしたら熱があるのかもしれない。
「俺……ミナトに聴いて欲しくて、歌を作ったんだ――」
 ジェイは切れ切れに言った。深呼吸を何度か繰り返したけれど、ジェイの息づかいは苦しげなままだった。
「――ミナトの、ためだけに」
 その一言で、あたしの身体中を熱い嵐が駆けめぐった。ジェイの瞳が真剣すぎて、少し恐ろしく思う。そして同時に、大きな喜びの波があたしの心をさらう。
「聴いて、くれる?」
「――もちろん」
 あたしは笑顔で頷いた。ジェイは弦を確かめるように爪弾きながら、美しい曲を奏で始めた。


 いつか この世が 闇に埋もれて
 一筋の 光も 失ったとしても
 君が いてさえ くれるなら
 僕は 何時までも 笑っていられる

 ねぇ 気づいてる? 君の笑う声が
 僕をどれだけ 救っているかを
 ねぇ 解ってる? 君の後ろ姿を
 僕がどれだけ 愛しく思うかを

 いつか この世が 闇に埋もれて
 すべてが 光を 失ってしまっても
 君が ここに いるだけで
 僕の こころは 満たされるんだ

 だから きっと そばにいて?
 光なんか 失くたって かまわない

 君が そばに いてさえ くれるなら


 ギターの音がやんで、植え込みはしんと静寂に包まれた。ジェイは苦しそうに白い息を吐いて、こわごわとあたしを見た。あたしはジェイの頬に触れた。溶けるように熱い頬。
「ミナトの手、気持ちいい」
 ジェイの手が、あたしの手を包む。
 あたしはそっとジェイの頬に頬を寄せた。ジェイの顔を両手で包んで、ほほえんでから口づけた。あたしの唇から、あたしの命をジェイにあげられたらいいのに。お互いにすべてを与えて――そして奪い合うような口づけを何度も何度も繰り返して、それでも心は満たされなかった。もっと、もっともっと。あたしの心が訴える。満たされることのない口づけが、少しずつあたしの心を凍らせてゆく。悲しかった。それでもあたしは、口づけを繰り返す。ジェイのすべてを、心に刻みつけるように。
 しばらくしてあたしとジェイは、おでこをくっつけたままでお互いを見た。
「……感染るよ?」
「うん、いいよ」
 するとジェイはくすっと笑った。
「嘘。そんな感染症、ある訳ないじゃん。あの時は――ミナトを試したんだ」
「そんなことだろうと思ってた」
 あたしも笑って答えた。あの時はびっくりしてうろたえたけれど、今は大丈夫。仮に感染ったって、かまいやしない。あたしはもし声を無くしても、生きていけるから。
「……ジェイ」
 そっと呼んでみる。ジェイは微かに笑った。でもその笑顔を、あたしははっきりと見ることが出来なかった。
「また、来るよね?」
「もちろん」
 歌うために――かすれた声で、ジェイはしっかりと答えた。


 その金曜日を最後に、ジェイは植え込みに現れなくなった。
「ウソツキ」
 小さな恨み言は、白く濁って、それからすぐに冬の空気に溶けてなくなった。口に出したほどには、あたしはジェイを恨んだりしていなかった。
 身を切る木枯らしの中でぼんやりと植え込みを眺めては、ホットの缶コーヒーでかじかんだ手を暖める。そんな風にどれだけ待ったことだろう。何回もの金曜の夜が過ぎて……だけどジェイは現れなかった。
 覚悟は出来ていたはずなのに、心にはどんどん闇が広がっていった。今のあたしには、どうしてもその闇をすっきりと払い去ってしまうことが出来なかった。ただ、ジェイのいない金曜の夜に慣れるしかないのだ。
 結局ジェイは手術を受けたのか、それとも――それはあたしには解らない。手術を受けて、何処かで声を失ったまま生きていてくれるなら、それでもいい。病状が悪化して――死んでしまったのだとしても、それも仕方のないこと。ただあたしは、ジェイがここにいないという現実を受け入れさえすれば、いいんだから。
 ジェイがいつも蹲っていた辺りに、ジェイみたいに蹲ってみた。低い目線から見上げる夜空には、悲しいことに一つの星も見えなかった。月が白く煌々と輝くばかりで、あたしは泣いた。
「……もう、行くね」
 いつもジェイに言ってたみたいに声をかけて、あたしは立ち上がった。耳の奥で繰り返すギターの音が、あたしの背中を押してくれる気がした。
「さよなら」
 あたしはもう、振り返らなかった。
 だけどあたしは、ちゃんと知ってるよ。きっと、忘れないよ。
 金曜日の夜に、ここでただ歌い続けた、一人のうたうたいがいたってこと――。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?