ー 4 ー

「……わたしね、お義父さんにもお母さんにも愛されていないのよ」
 二葉(ふたば)はそう話を切り出した。
「お母さんは再婚するまで、いつも必死に働いていたわ。そりゃそうよね、女手ひとつで子供を育てるなんて、大変なことだもの。わたし、お母さんにあんまり甘えた記憶がないの。お母さんはいつもいつも、怖い顔をしていた。甘えちゃいけないんだ、って思いながら生きていたの」
 二葉はゆっくりと、過去を遡るような目をしながら話していた。一葉(かずは)は黙って聞いている。
「たまに、お父さんがお母さんにお金を貰いに来てたのも知ってる。それが自分の実の父親だ、ってことは、はっきり言われたわけじゃないけど、なんとなく解ってた。……お父さんが来た後は、お母さんはわたしを見ようとしなかった。わたしはそれが余計に怖くて、お母さんに甘えられなかった」
 二葉の表情から二葉の思いを量ることは、簡単なことではなかった。俺は二葉を見つめながら、やはり二葉が小さくうずくまっている様子を思い浮かべていた。
「お母さんが再婚したのは、小学校に入ってすぐだった。初めてお義父さんと会ったときは、ものすごく緊張したわ。でも、すごく優しくしてくれて、夢みたいだ、って思ってた。再婚してすぐ、弟が生まれたの。――今思えば、再婚したのもお母さんの妊娠がきっかけだったのかもしれない。だけどわたしは、すごく嬉しかった。弟が生まれたこと。でもね、弟が生まれて、お母さんはますますわたしを見なくなったの」
 二葉は真っ白な顔のまま、なるべく平静を保ちながら話をしようと懸命なようだ。俺はじっと二葉を見守っていた。一葉も俺と同じように感じたのかもしれない。先ほどまでのとげとげしさが僅かではあるが和らいでいた。
「弟ばかりを可愛がるの。わたしなんて、最初からいなかったみたいに。お義父さんもそうよ。……それも当たり前よね、わたしはお義父さんにとっては義理の娘だけど、弟は違うんだもの。お母さんにね、こう言われたことがあるの」
 二葉はそこで息をついた。言いたくない、でも言わなければならない。そんな表情だった。
「あの人そっくりのアンタの顔を見てると、あの人を思い出していらいらするわ――って」
 一葉が息を呑む気配が、隣に座る俺に伝わってきた。俺は一葉が父親から虐待を受けた理由を思い返していた。――母親そっくりだから、そう言っては殴られていたのではなかったか。
「――それにね……」
 二葉はそう話を続けかけて、しばらく先をためらった。身体が小刻みに震えているのが、俺にも解った。顔色はさらに血の気を失って、今にも倒れるのではないかと思った。俺も一葉も、何も言わずに二葉の言葉を待つ。
「お義父さんからは……性的な虐待を、受けてたの」
 小さな、搾り出すような声だった。一葉の表情が変わる。
「――虐待が始まったのは、弟が生まれてすぐくらい。最初は、何をされてるのか解らなくて、ただふざけてるんだと思ってた。――その意味を知ったのは、高学年になった頃かな。……それからは、毎日地獄だった。お母さんも知ってて、でも、助けてなんてくれない。逆にわたしを責めるような目で見るよ。……お義父さんは、わたしにそういうことするのが後ろめたいのか、お小遣いをたくさんくれる。……でも、そんなものじゃ何にもならないでしょう? お母さんは、わたしがたくさんお小遣いを貰っていること、面白くないみたい。何度もお小言を言われて、でもお義父さんにお小遣いなんて要らない、そう言ったら、怒られるの。父親からの小遣いくらい、嬉しそうに貰っておけ、ってね。――わたし、自分をたくさん責めて、何度も手首を切った。……でも、怖くて死ねないの。最近は、やっと何とか自分を守れるようになったけど……今でも怖いの。そして時々、死にたくなって手首を切るの……」
 二葉は口許に手を当てて、嗚咽を堪えているようだった。俺はかけるべき言葉を見つけることが出来ず、煙草のことを考えていた。煙草を喫えば頭がすっきりしそうな気がした。
 一葉も何も言わずに、二葉の震える肩を見つめているだけだった。
「……家にいても、学校に行っても……誰もわたしを助けてくれない。そんなときに一葉ちゃんのことを知ったの。嬉しかった。……わたしが本当に家族と思えたの、離れていても一葉ちゃんだけだった」
 二葉は大きく息を吐き出した。
「一葉ちゃんにね、いろいろ買ったり、プレゼントしたりしたのも、お父さんがちゃんと働いてなくてお金に困ってるって知ってたから。わたしは――綺麗なお金じゃないけど、余るほどお金を持ってたし、それで一葉ちゃんが喜んでくれるなら、って思ってたの。――そのことで、一葉ちゃんを追い詰めることになってたなんて、思いもしなかった。ごめんね、一葉ちゃん」
 二葉はそう言って、深く頭を下げた。
「ごめんね、ほんとに。許してもらえなくても、仕方ないと思う。わたし、自分のことしか考えてなくて、一葉ちゃんの気持ちなんて、ちっとも考えなかったんだもん。ほんとに、ごめんなさい……」
 最後の方は、掠れたような消え入るような、小さな小さな声だった。それでも二葉は、一葉に対してごめんねを何度も繰り返していた。一葉はじっと二葉を見つめている。
「……お小遣いたくさんあっても、いい学校に行かせてもらえても、いいものたくさん持ってても、わたしが本当に欲しいものはそんなものじゃなかった。たった一つの欲しいもの、やっと手に入れたって思ってたのに……それも結局自分で失くしてしまうようなことしてたなんて――。わたし、ばかだ。本当にばかで――」
「……二葉――」
 二葉が自分を責める言葉を遮って、一葉が二葉の名前を呼んだ。
「……なんで、ちゃんと話してくれなかったの?」
 一葉の顔を、二葉が驚いたように見つめた。
「なんで、全部ちゃんと話してくれなかったの? あのときだって、嬉しそうにしてたじゃない。なんで?!」
 一葉の言うあのときと言うのは、二人で誕生会をしたときの、帰り際のことだろうか。俺はそんなふうに考えていた。二葉も考えを巡らせるような顔つきをしていたが、やがて思い当たったように、ああ、と小さく呟いて、一葉をじっと見ながら言った。
「……だって、一葉ちゃんに心配かけたくなかったんだもの。わたしだって、一葉ちゃんが辛い思いしてるなんてこと、吉河さんから聞いて初めて知ったのよ? お金に困ってる、って言うのは解ってたけど、それ以上に辛い目にあってるなんて、全然知らなかったよ。一葉ちゃんだって、わたしに心配かけたくなくて、言わなかったんでしょう? 違う?」
「それは――」
 一葉はその先を続けることが出来なかった。二葉の言う通りなのだろう。
「だから言わなかったよ。……言っても解ってもらえない、そう思ってた部分もあったし。でも、ちゃんと話せばよかったね。だけどわたし、どうしても話せなかったの。怖かったの。一葉ちゃんが知ったら、一葉ちゃんに軽蔑されるんじゃないか、そう思ってた。一葉ちゃんがわたしを軽蔑して、今までみたいに仲良くしてくれなくなるんじゃないか、そう思うと、怖かった。だから言えなかった」
 二葉はまた俯いて、テーブルの上で自分の両手を握り合わせながら言葉を繋げた。
「……最近、精神科に通っているの。カウンセリングを受けて、やっと自分は悪くなかったんだ、って思えるようになってきたの。カウンセラーさんはね、わたしにいつも言うの。話して楽になりなさい、って。誰もあなたを責めないし、あなたは犠牲者なんだから、もっと自分を認めてあげていいのよ、って。……それがなかったら、今もわたし、こんなこと話せなかったかもしれない。――本当はずっと、一葉ちゃんに話したかった。話して、大変だったね、って言ってもらいたかった。今、わたしがカウンセラーさんにしてもらってること、ほんとは一葉ちゃんにしてもらいたかった――」
 そう言ってしまうと、二葉はじっと黙り込んでしまった。一葉も何も言わない。一葉はきっと、不倫相手の教師のことを考えていたのではないかと、俺には思えた。そうしてしばらく、俺たちの上に重い雲が徐々に立ち込め始めたように、沈黙が押し広がっていった。その重苦しい沈黙を破ったのは、一葉の言葉だった。
「アタシたち、どっちも似たりよったりだったんだね」
 その言葉は、今まで俺たちを支配していた沈黙よりも、重く苦しい言葉だった。一葉は喘ぐように息をしながら、テーブルの上に力なく置かれた二葉の左手の上に、そっと自分の右手を重ねた。
「ごめんね、二葉。アタシも、自分のことばっかり考えてて、二葉がそんなに辛い思いしてるなんて、知らなかった……。アタシ、二葉をずっと羨ましいって思ってた。でも、わたしが羨むことなんて、これっぽちもなかったね。それどころか――」
 一葉が先を続けようとするのを、二葉は思い切り首を振って遮った。
「ううん。わたしやっぱり恵まれてたと思うよ。一葉ちゃん、ずっとずっと大変だったでしょう?」
「そんなことない! 二葉の方が!」
「一葉ちゃんの方が!……」
 しばらく二人は、どちらも譲らずにそんなことを言い合っていたが、やがてどちらからともなく笑い始めた。全く同じ笑顔だった。
「……これから、また前みたいに会ってくれる?」
 笑いが収まってから、二葉がおずおずと一葉に言った。一葉は優しく笑いながら答える。
「当たり前じゃない。……アタシたち、たった二人の姉妹だもん」
 一葉の言葉に、二葉は再び涙を流した。
「ありがとう、一葉ちゃん」
「二葉……」
 二人はしばらく手を握り合って、二人揃って静かに涙を流していた。その涙は、自分のために流した涙だっただろうし、そして同時にお互いを思って流した涙だったに違いない。俺は切ない気持ちで、しばらく二人を見守っていた。
「……なんか、甘いものが食べたくない?」
 涙を拭いながら、そう口を開いたのは一葉だ。
「……うん。食べたい。何かオーダーしようか?」
 二葉も同じように涙を拭って、一葉に同意する。二人はサイドオーダーのデザートの欄を見つめていた。俺が店員を呼ぶと、二人は綺麗にハモった。
「チョコレートサンデーください」
 そして、お互いに顔を見合わせて、楽しそうに笑った。店員はオーダーを確認してから立ち去った。俺はまだくすくすと笑いあっている二人を横目に、コーヒーのお変わりを取りに席を立った。二人は顔を寄せ合って、まだ嬉しそうに、楽しそうに笑っていた。俺はその様子を、昔見た心理学の本を思い出しながら眺めていた。――認知心理学の「目の錯覚」というやつの挿絵だ。どちらに注目するかで、向かい合った人間の横顔にも、壷にも見えると言うあれである。
「……めでたしめでたし、なのかな――」
 俺はそっと呟いた。
 二人は二人とも、本来ならば自分を愛してくれるはずの存在に愛されずに生きてきた。一葉は父親から、別れた母親を思い出すと言われて暴力を受けた。二葉は母親から、別れた父親を思い出すと言われて心を痛めた。一卵性でそっくりな双子が、それぞれに同じ理由で親に愛されないと言うのは――皮肉としか言いようがなかった。双子の両親はそれぞれに、何が原因かは知らないが憎みあって別れたであろう相手の姿を、幼い子供の中に見ていたのだ。そういう意味では、二人の本当の両親も辛い、悲しい存在だったと言えるのかもしれない。俺には子供がいないから解らないが、自分の子供を愛せないのは、不幸で悲しいことだ。親に愛されない子供も不幸で悲しい存在だが、親はそれ以上かもしれない。
 俺がテーブルに戻ると、二人はチョコサンデーを食べながらなにやら真剣に相談していた。二葉は俺を見て、嬉しそうに言った。
「高校卒業したら、一緒に暮らそうね、って言ってたところなんです」
「へぇ。でも、そんなことできるのかい?」
 俺がそう尋ねると、二葉はしっかりと頷いた。
「多分大丈夫。大学進学を機に、独り立ちしたいって言うもの。母は反対なんかしないと思うわ。あの人、弟さえいればいいんだから。義父だってきっとそう」
 二葉はちょっと悲しそうな表情を見せたが、それも一瞬で消し飛んでしまった。二葉が今の両親を、義父、母、と呼んでいることから、二葉の中で何かしらの決心が出来ていることを俺は悟った。一葉と解りあえたことで、二葉は今の環境から飛び立とうとしているのだろう。
「……でも、いろいろお金がかかるじゃない? ほんとに大丈夫かな?」
 一葉が心配そうに言うと、二葉は自信たっぷりに言い切った。
「それもきっと大丈夫よ。義父は体面を気にする人だから、たとえ義理の娘とは言っても、娘が一人暮らしをするのにお金を出さないなんてことが知れたら、取引先の人に合わせる顔がない、って思うでしょうしね。大学もエスカレーター式だから、やっぱり体面を気にして行かせてくれるんじゃないかと思う。……それに」
 二葉はそこで、嘲るように口許を歪めた。俺は二葉がそんな表情をしたことに驚いたが、それを隠したままで二葉の言葉を待った。
「あの人には、わたしに対して後ろめたい感情があるでしょう。だから大丈夫よ。もちろん、もしお金を出してもらえなかったときのために、今からバイトして貯めるわ。一度出てしまえば、あとはどうにでもなるんじゃないかな。ね? そうでしょ、一葉ちゃん」
 一葉は二葉に同意を求められて、嬉しそうに頷く。
「……アンタ、結構ずるい娘だったのね。でも、二人で頑張れば、きっと何とかなるよね。頑張ろうね」
「うん」
「アタシも、高校出たら働くから。頑張って働いて、まずは伯母さんに学費を返さなくちゃならないし」
「うん!」
 そうして二人は、満足そうに頷きあった。俺は二人が本当に楽しそうに、しかし真剣な表情で、近い将来について語り合っていることを嬉しく思った。確かに今は、ままごとじみた『姉妹ごっこ』の延長かもしれない。これから二人は、反発したり傷つけあうことだってあるだろう。お互いが知らなかった部分を目の当たりにして、幻滅してしまうことだってあるに違いない。それでも俺には、二人が本当の意味でお互いを求め合っていることを知っているから――二人には誰よりも幸せになってもらいたいと思っていた。そしてこの二人なら、幸せになれるのではないかと思った。
 たくさんの傷を負いながら生きてきた、二人なのだから。


 二人がチョコサンデーをきれいに食べ終わったところで、俺たちはファミレスを出た。もう十時近くになっていたが、辺りはまだまだ騒がしかった。さすがに制服のままうろついている子供は少なかったが、明らかに未成年の少年少女が、本屋やCDショップ、ゲーセンに溢れていて、俺はなんだか恐ろしい気がした。
「じゃ、アタシはこれから友達の家に行くから。二葉、気をつけてね」
 一葉が優しい口調で言った。二葉は頷き返す。
「一葉ちゃんも、気をつけて。またね」
「うん。それじゃ……。探偵さん、二葉をちゃんと送って行ってよ」
「ああ。大丈夫」
 一葉は俺の言葉に安心したのか、二葉と俺に手を振ると、賑わう通りに消えていった。途中で二度ほど振り返って、確かめるように大きく手を振っていたのが印象的だった。
「さ、それじゃあ帰りますか」
 俺の言葉に、二葉は一葉の消えた方向を、名残惜しそうに見つめたままで頷いた。
「これからはいつでも会えるんですから」
 俺がそう言って二葉の腕を取ると、二葉は俺について歩き始めた。それでも後ろを気にしていたので、俺がわざとため息をついてみせると、二葉は俺を見上げてこう言った。
「だって。一葉ちゃんとやっと本物の家族になれた、そんな気がするんですもの。だから、なんだか胸がいっぱいになっちゃって」
 俺は二葉の言葉に、胸を打たれて立ち止まった。二葉は俺を見て、にっこりと笑った。目がありがとう、と言っていた。本当に喜んでいることが伝わってくる笑顔だった。俺はポケットからラークを取り出して、いつもより時間をかけてゆっくりと味わった。煙草を踏み消すと、二葉が晴れやかな表情で俺に言った。
「行きましょう」
 二葉が歩き出した。俺は二葉の斜め後ろを歩きながら、背筋を真っ直ぐに伸ばした二葉を見ていた。もう、背筋を縮めて、俯いて歩かなくてもいいんだ、二葉の全身がそう叫んでいるように見えた。俺は自然に口許がほころぶのを感じていた。


 三日後に、二葉が俺の事務所に電話をしてきた。報酬の件で、だ。
 俺が一葉の調査に要した期間は一月とちょっと。しかし期間を二週間に設定してあるので、調査期間を六週間として、基本の報酬が四十五万。それから二葉と一葉の対面に立ち合ったことへの報酬を別に貰う。さらに交通費と諸経費を含め、俺は六十万を二葉に請求しようと決めていた。二葉にそれを伝えると、二葉は電話口で驚いたようにこう答えた。
『たったそれだけでいいんですか?』
 俺は実際のところ、二葉にも、それから一葉にも散々に振り回された気がしたので、吹っかけたつもりだったのだ。もし値切られても五十は貰うぞ、そう心に決めていた俺は、その言い方に驚いてしまい、しばらく黙り込んでしまった。七十くらいにしておけばよかった、と後悔したが、後の祭りだった。
「――ええ、まぁ、今回は、私の方にも多少の不手際はありましたし――、今回はそれで」
 俺が気を取り直してこう言うと、二葉は解りました、と落ち着いて返事をし、翌日直接事務所に伺います、と言って電話を切った。俺はしばらく受話器を握りしめたまま、つくづくもったいないことをしてしまった、と思っていた。
 次の日二葉は、一葉と共に俺の事務所にやってきた。
「本当にお世話になりました」
 二葉が深々と頭を下げる。
「いやいや。二葉さんの熱意がなければ、私もここまでの調査はお引き受けしませんでしたから」
 俺がそう返すと、二葉の隣で一葉がくすくすと笑った。俺が睨みつけると、一葉は本当におかしそうに、今度は腹を抱えて笑い出した。
「だって、アンタにそんな丁寧な言葉、似合わないんだもん。あー、おっかしー」
「一葉ちゃん、吉河さんに失礼じゃない」
 二葉がたしなめるように言ったが、一葉は構うことなく笑い続けた。
「まぁまぁ、構いませんよ、私は気にしませんから――」
「『私』! だって! やだー」
 さらに一葉が笑うので、俺はついにこう怒鳴ってしまった。
「おまえなぁ! ばかにするのもいい加減にしろよ!」
 二葉が驚いて俺を見ている。目をぱちくりさせて、それから楽しそうに目を細めた。
「吉河さんて、ほんとはそんな方だったんですね」
 ふざけて逃げ惑う一葉を追いかけるように腕を振っていた俺は、二葉を改めて見た。
「でも、その方が安心します。吉河さんもちゃんと血の通った人間なんだなぁ、って」
 二葉の言葉に、俺はなんだか恥ずかしくなってしまった。それをごまかすように二人にソファを勧めて、茶を煎れてから俺も座った。
「じゃ、これ。お約束の報酬です」
 二葉が鞄から封筒を取り出した。銀行の名前入りの封筒から、それがたった今引き出されてきたことを察した。俺はそれを受け取ると、中を確認した。
「はい。確かに頂きました。……領収書は?」
 俺はいつものようにお決まりの台詞を口にした。二葉は笑ってそれを辞退しようとしたが――一葉がこう言った。
「貰っとこうよ、領収書。記念に」
 一葉の言葉に、俺は呆れて一葉を見た。
「何の記念なんです?」
 俺の言葉遣いがおかしかったのか、また一葉はくすっと笑ったが、まじめな表情に戻るとこう言った。
「アタシと二葉が、和解した記念よ。ねぇ二葉。これからどんなことがあっても、このときを忘れないように。……ま、アタシは何も残ってなくても忘れたりしないけど」
 最後の台詞を抜け目なく付け加えて、一葉はまた笑う。二葉も一葉に同意して、俺に言った。
「じゃ、ください。領収書」
「はい」
 俺は内心では一葉の思い付きをいかにも子供らしいと思っていたが、それもこの二人には大事なことなんだろうと思い直して、デスクの引出しから領収書を取り出した。
「お名前は、空木二葉様、でよろしいですか?」
 俺が確認すると、二人は示し合わせたように顔を見合わせ、それから二葉が言った。
「名前は入れないで。金額と日付だけで結構ですから」
 俺は解りました、と返事をしてから、金額と日付を丁寧に書き、印紙を貼って割り印をした。それを丁寧に切り取ると、二人に差し出す。
「こちらでよろしいですか?」
「はい」
 二葉はテーブルの上に置かれた領収書に見入りながら、確かに頷いた。一葉はヘタクソな字ね、などと言いながら領収書を見つめ、まあいいんじゃない、と生意気な言い方をした。
「それじゃ……本当にありがとうございました」
 二人はソファから立った。二葉が俺にまた頭を下げる。
「私は仕事を引き受けただけですから」
 俺はそう言って、こちらこそありがとうございました、と付け加えた。
「それじゃね、探偵さん」
 一葉がドアのところで俺に向かって手を振った。俺は手を振り返した。事務所の窓から去っていく二人の後姿を見るともなく見ていると、急に二人が揃って俺を振り仰いだ。そして、窓を開けろと動作で示した。俺がゆっくりと窓を開けると、二人は全く同じ調子で言った。
「あなたのこと、一生忘れない! 本当にありがとう!」
 二人揃って、ぺこっと頭を下げると、秘密がばれた子供のように照れたような笑みを浮かべ、そうしてぱっと駆け去った。俺はただ呆然とそれを見ていただけだった。開け放たれた窓から微かな風が入り込んで、俺の頬を撫でた。俺ははっと我に返ると、苦笑して窓を閉めた。
 ありがとう、か。
 そんなふうに礼を言われるようなことを、俺はした覚えなんてない。俺は依頼を受けて調査した、ただの探偵なんだから。
 俺が知った二つの真実は、どうしようもなく辛い真実だった。二人がそれぞれに抱えてきた真実は、他人の俺でさえ行き場のない憤りを感じるものだった。それでも、あの二人――一葉と二葉は、それを受け止め、乗り越えようとしている。たった、二人きりで。俺はポケットから取り出したラークをくわえて、静かに火を点けて、最初の一服を胸いっぱいに吸い込んだ。
 仕事をやり遂げた充実感と共に、何か得体の知れない痛みが俺の心に忍び込む。俺はそれをわざと吹き飛ばすように笑って、しばらくラークから立ち上る紫煙と、吐き出した真っ白な煙をぼんやり眺めていた。
 そこで、インターフォンが鳴る。俺は慌ててラークを灰皿に押し付けてインターフォンに向かった。
 新しい調査が俺を待っていた。


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