ありがとう、たくさん。

 私のキャリアにとって、結婚やら妊娠やら出産なんて、はっきり言って余計な回り道でしかないと思ってた。

* * *

 ルームシェアしていた郁生となんとなくそういう関係になって、妊娠が発覚したときには、しまった、としか思えず。やっぱりピルを飲んでおくべきだったと後悔しても遅かった。
 だけど郁生が泣きながら喜んで、すぐに籍入れようなんて言い出すから、堕ろしたいって言えなくなってしまった。本当は子どもたくさん欲しいんだ。へえ、知らなかった。だって美晴はバリバリのキャリアだから、そんなこと言えないよ。まあ――そうかもね。産休に入った日の夜、ベッドでそんな会話をした。

* * *

 出産。鼻からスイカを出すよりはうんと楽だった。ただ私の場合は所謂後産で胎盤がなかなか剥がれなくて、思った以上に出血して、実は危ない状態だったそう。次は帝切がいいでしょうとか言われて、出産ってほんとに命懸けなんだなって知った。生まれたのはちんまくて抱き心地がふっかふかの女の子。これが私のお腹にいたのか。不思議としか言いようがない。郁生はそれこそもう訳が解らないような喜びようだった。毎日定時きっかりに帰って、真っ先に手洗いうがいを済ませて娘、琴音を抱っこするのが決まりになった。郁生は授乳以外は全部した。まさしくイクメンだった。私の育休が終わる頃には自分の育休を取得して育児と家事を頑張ってくれて、私はスムーズに復職できた。ピルを飲み出したのは秘密だ。

* * *

 気がつくと、琴音の十歳の誕生日が目前に迫っていた。私は育休以降とんとんと階段を駆け上るように出世していた。先の人事で課長になって、ますます忙しい。郁生は、と言えば、育休ですっかり家事と育児の面白さに目覚め、退職して家でほそぼそと絵を描くような仕事をしながら『兼業主夫』になっていて、それもすっかり板についていた。琴音の誕生日どうしようか。レストランでサプライズパーティなんてどう? おもしろいね。それでいこう。そんな感じで話はまとまり、私は当日、念を入れて半休を取った。郁生に、琴音へのプレゼントを買ってからレストランへ直接向かう旨を告げ、デパートへと向かった。

* * *

 さんざん迷って、前に『お姫様みたいなワンピースが欲しい』なんて言っていたのを思い出して、ほんのりゴスロリ系のワンピースと、ティアラ風の髪飾りを買う。可愛いラッピングをしてもらって、少し息抜きのウィンドウショッピングをしてから、レストランに向かった。ほぼ予約通りの時間につくと、郁生は琴音と先に到着していて、奥の個室にいるという。私は店員さんにお礼を言って個室に向かった。軽くノック。琴音の元気な返事が聞こえてドアを開けた。そこで私を待っていたのは、思いがけないものだった。

* * *

 ドアを開けた私を出迎えたのは、パン、と乾いた大きな音。びっくりしてすぐに何も言えずに立ち尽くす私の目に、くすくす笑う琴音が映る。普段きりっと涼しげな目元は、笑うととたんにくにゃりと柔らかい印象に変わる。郁生譲りの可愛い目。
「お母さん、お誕生日ありがとう!!」
 咄嗟に返事ができなかった。奥で郁生もニコニコしている。
「……っと、うん、そうね」
 照れくさくてそれしか言えない。
「あ、これ、プレゼント。琴音、お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
 差し出した紙袋を受け取って、それから琴音は私の手を引いた。
「ご馳走なんでしょ? 早く座ろう」
 丸いテーブルに、正三角の頂点に座る私たち。お料理はフレンチのフルコース。初めてのフルコースに、琴音はちょっぴり緊張気味だ。和やかにお喋りしながらコースは進み、デザートはもちろんバースディケーキ……と思っていたら。お店のお兄さんが運んできたのは、みっつのプレート。それぞれの目の前に置かれたのは、いちごのアイスクリームが添えられた、メッセージ入りのケーキだった。

 ハッピーバースディ ことね

 ママヘ お誕生日ありがとう

 パパへ 毎日おいしいごはんありがとう

 琴音へのバースディケーキは郁生と私から。あとのふたつは、このレストランに予約を入れたと知った琴音からのサプライズだった。
 気がついたら私は泣いていた。
 慌ててハンドバッグからハンカチを取り出す。それを郁生にも貸してあげた。郁生と私はコーヒーで、琴音はミルクでケーキを味わう。

 特別においしいケーキだった。

 恥ずかしくて口には出せなかったけど。
 琴音、生まれてきてくれてありがとう。私をママにしてくれてありがとう。妊娠したとき、しまった、なんて思ってごめんね。他所のおうちのママとはちょっと違うママだけど、いっぱいお仕事、頑張るからね。
 それから、郁生。琴音と私の生活の基盤を整えてくれてありがとう。毎日大変よね。たまにはちゃんと、息抜きしてね。もうちょっと手抜きしても、文句なんて言わないから。
 ふたりとも大好き。愛してる。

* * *

 デザートのあと、プレゼントの包みを開けた琴音は躍り上がって喜んだ。ちなみに郁生からのプレゼントは真っ赤なヴェネチアングラスのトップがついたペンダントだった。
「パパ、ママ、ありがとう‼」
 琴音の笑顔はきらきら眩しかった。改めて、十歳おめでとう、琴音。ところでどうして、ここに予約入れたのが解ったの? そう尋ねた私に、琴音は大人びた表情でこんなふうに答えた。
「だってパパったら、ツメが甘いんだもん。予約の件で一点確認が、って、お店から電話が来たの、うちに」
 ふつうサプライズなら、ケータイに連絡してもらうようにするでしょ? ですって。そんな間の抜けたところも、郁生の可愛いところ。琴音は少々不満顔を浮かべたあとに、こう付け加えた。
「でも、逆サプライズ大成功で大満足‼」
 そうしてくにゃりと目を細めた。

* * *

 その夜。琴音が寝たあとのダイニングで、郁生とふたりで改めてワインで乾杯をした。びっくりだったね、逆サプライズ。私のことばに郁生は微妙な笑みを浮かべた。まさか。知ってたの? ママ、お誕生日ありがとう、まではね。じゃあ、パパありがとう、は? うん……、あれはほんとにサプライズ。そんな郁生と、琴音がたまらなく愛しい。私は立ち上がると背中から郁生を抱きしめた。耳許に唇を寄せるとそっと囁く。

 郁生、私をママにしてくれてありがとう。
 琴音を、やさしい子に育ててくれてありがとう。
 いつも一緒にいてくれてありがとう。
 愚痴や弱音を、受け止めてくれてありがとう。
 他にもいろいろ、たくさん、たーくさん、ありがとう。

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