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+++ 5 +++

「――どう? 気に入ってくれた?」
 男はそうっと囁いた。大きな声を出したら何もかもが消えてなくなってしまう――そんなふうに思っているような、密やかな声。
「……これが、今の僕に出来る精一杯。でも、どうしても見せてあげたかったんだ……君に」
 どうして? ――問い返されて、男はじっと宙を見つめながら。
「どうしてかな――? あの話を聞いたときに、僕の頭の中にも同じ風景が見えたから、かな。綺麗で不思議な風景。それがとっても印象的だった。……ねぇ、知っていた?」
 なにを? そう尋ねられた男は、口許に微笑を浮かべたままで言った。
「この不思議な風景、こんなふうに呼ばれてるんだって……」
 男が次に口を開いた瞬間、世界が色を失った。
 そして。

 世界は何事もなかったように、元の姿に戻っていた。
 空は抜けるように澄み切った青。
 男も抜けるように澄み切った笑顔で、ただそこに立っていた。

*   *   *

 沙良浬(さらり)がいつものように空き地にやってくると、すぐに翔陽(しょうよう)が出迎えてテントに入れてくれた。
 翔陽は簡単なカードの手品を見せてくれた。
「沙良浬。これから二週間は特別日程でとても忙しくなるんだ。ショウの準備と、それから少しずつ片付けも始めなくちゃいけないし」
「うん」
「だからね、今までみたいに長い時間、沙良浬の前で練習できなくなっちゃうんだけど、それでも来る?」
「……迷惑じゃない?」
 翔陽は沙良浬にカードを一枚選ばせながら、言った。
「僕はちっとも。だからよかったらまたおいで?」
 沙良浬は選んだカードを返しながら頷いた。翔陽はカードを何度もシャッフルして、三つの山に分けた。そのうち一つを沙良浬に選ばせて、またシャッフル。また三つの山。それを三回繰り返して、残ったカードを手にとってにやりと笑った。
「さて、と。沙良浬のカードはこれ?」
 翔陽がぴらりとカードを見せた。ハートのクイーン。まさに沙良浬が選んだカードだった。
「当たり」
 翔陽はそこで軽くお辞儀をした。
「沙良浬も覚える? 人気者になれちゃうかもよ? これ、すごく簡単だし」
「あたし不器用だもん。できるかな?」
「やってみなくちゃ解らないじゃない?」
 そんなことを言いながら、一通りタネをばらしてもらって、その意外な簡単さに沙良浬はかえってがっかりしてしまった。
「こんなことだったの」
「うん。でも最初は不思議に思っただろう?」
 翔陽の問いに、沙良浬は悔しいが頷くしかなかった。
「だから手品は面白いんだよ。じゃ、今日はこれで」
 またね、と翔陽が手を振ってくれた。沙良浬も手を振って空き地を去った。
 その後、沙良浬は何度か空き地まで行ってみたものの、なんだか忙しそうな雰囲気に包まれたその場所に踏み込めなかった。そのまま翔陽とは顔を合わせないまま、八月の最初の週がやって来た。
 今週でショウも終わり――そう思うと、やはり沙良浬はステージでの翔陽を見ておきたいと思った。回数で言うと、あとたった二回。沙良浬は夕方、一人で空き地に向かっていた。もちろん翔陽には内緒だった。翔陽に会いに行く時にはちっともそんなふうに思わなかったのに、なんだか妙な気恥ずかしさを覚えたからだった。
 締め切られたテントの中は、人いきれと熱気で蒸し返っていた。夏休み中らしい子供を連れた家族連れがたくさんいて、和やかな雰囲気の中で、ショウが始まった。
 最初にステージに立ったのは翔陽。濃いブルーのシングルスーツに、真っ白なチーフを飾っていた。
 翔陽はその白いチーフをさっと広げると、そこから一瞬で鳩を出した。
 ――ユキ。
 沙良浬は内心でそう呟く。場内に小波のような拍手が起きる。翔陽の手を離れたユキは場内を一周して、翔陽の腕に帰った。そして大人しく止まり木に止まる。
 それからは沙良浬も見たことのある、派手ではないが誰もが楽しめる手品がいくつか披露された。沙良浬がタネを教えてもらったカードの手品も披露される。カードを選んだ子供たちは、見事にそれを当てた翔陽に尊敬に似た眼差しを送っている。
 ステージで手品に打ち込む翔陽の姿は、本人が言っていたように普段の翔陽よりも数段格好よく見えた。
 沙良浬にはその理由が解っていた。
 真剣になれること、一生懸命になれること――それが翔陽を格好よく見せているということを。ステージはライトアップされているので、客席からはその全てがくっきりと見通せるが、ステージからはそうはいかないだろう――そう思っていた沙良浬に、突然一輪のピンクのカーネーションが飛んできた。一瞬にして客席の目が沙良浬に集中する。
「……ようこそいらっしゃい。最後まで楽しんで帰ってね」
 翔陽がそこで軽くウインクした。沙良浬はびっくりして翔陽を見た。
「……なんで」
 沙良浬の呟きに答えるように翔陽は優雅なお辞儀を一つ。それからステージを去った。
 次に年配の男性がステージに立った。
 それは沙良浬が初めて見る、翔陽の祖父だった。
 大柄というほどではないが、すらりとした体型。黒いタキシードに赤いチーフ。すっと伸びた背筋と、引き締まった表情は威厳に満ちて、見ているこちらの背筋も自然に伸びる思いだった。
 ――魔法使い。
 沙良浬はまた心の中で呟いた。
 優雅な物腰で淡々と簡単な手品を始めた手品師は、沙良浬にも魔法使いのように思えた。翔陽とは比べ物にならない物腰の優雅さと、無駄のない動き。本当に何もない空間から、色々なものが飛び出すように見えた。
 何度かショウを見に来ている人がいるのだろう。テンポよく次々に手品を進める手品師の邪魔をしないタイミングで、程よい大きさの拍手が沸く。テレビで見るような大掛かりな手品ではないけれど、とても楽しい、そして和やかなショウだった。
 翔陽が再び現れた。アシスタントをするらしい。
 手品師が翔陽の手足に錠をかけて、そのまま翔陽は身体がすっぽり納まる縦長の箱に入った。手品師はその箱の扉を閉めて、いくつも鍵をかける。中に翔陽がいることを示すように小さな扉がいくつか開けられた。翔陽がにこやかな表情を見せる。手品師はその小さな扉も閉めて、真っ白な布ですっぽりと覆った。それから手にしたステッキでとんとんと軽く箱を叩く。次の瞬間。
 布に覆われた箱の形が崩れて、平べったい白い山になった。
 息を呑む観客。
 手品師が布をぱっと取ると、そこにはつぶれた箱が残っていた。鍵はついたままだった。
 と、さらに次の瞬間、客席から翔陽がステージに駆け上がった。わあっと大きな拍手が起こる。そこで手品師と翔陽はそろって深々とお辞儀をした。
 ショウが終わった。
 沙良浬はなんだか不思議な出来事を目の当たりにした気がした。しばらくぼうっと座っていたが、帰ってゆく客の波が途絶えたところで我に帰って、席を立つ。テントから出ようとしたところで、いきなり腕を掴まれた。翔陽だった。
「来てくれたんだね? ありがとう」
 翔陽の頬は上気していた。
「どうして解ったの?」
 投げられたカーネーションを見せながら、沙良浬は翔陽に尋ねた。
「なんとなく、ね。ところで、どうだった?」
「素敵だった。びっくりしちゃった。最後の。あんな手品もするのね?」
「まあね」
 翔陽は照れたように笑う。それから沙良浬に頭を下げた。
「ありがとう、来てくれて。……来週、ちゃんと来てね?」
 二人だけの手品ショウのことを言っているのだ。
「うん」
 じゃ、後片付けがあるから、そう言って翔陽は足早に戻って行った。沙良浬は翔陽の後姿に、そっと礼を言った。



 約束の日は、朝から雲ひとつなく晴れ渡っていた。
 沙良浬は朝から落ち着かない気分で、翔陽との約束の時間が近づくのを待った。早めに昼食を済ませると、先日母親に買ってもらったキャミソールワンピースを着た。薄い紫色の生地に、白と紫の小花が散っている。それだけだとなんとなく貧相に見えるので、一緒に買ってもらった一段濃い紫のサマーカーディガンを羽織る。沙良浬は何度も姿見に全身を映した。これならちゃんとおしゃれしているように見えるだろう、そんなふうに考えながら。
 沙良浬は待ちきれなくて、約束の時間よりもかなり早めに家を出た。手には白い小さなハンドバッグ。中には翔陽にもらったチケットもちゃんと入っている。結局母親が買ってくれた、赤いビーズの飾りのついた白いミュールを履いた。慣れないので歩きにくいが、時間にも余裕があるのでゆっくりと歩くことにした。
 暑い。
 沙良浬は握りしめたハンカチで、たまに額や首筋を拭きながら歩いた。思い出したように時折吹く風も、まるで熱風でちっとも爽やかではない。身体が焦げるのではないかと思うほど暑かった。羽織ってきたカーディガンももはや邪魔でしかなかった。腕にかけて歩くと、薄手のカーディガンと腕の間に熱気がこもった。
 やっとの思いで空き地について、沙良浬はその様子の変わりように驚いた。すっかりテントは取り払われて、脇に大きなトラックが停まっていた。先日まで手品ショウが行われた空き地とは、全く別の場所に来てしまったような気がした。奥を覗き込むとビーチパラソルと小さなテーブル、それに一脚の椅子が忘れもののように置いてあった。
 そしてそれらに対するように、小さな台や箱が据えられており、ワゴンの上にはステッキやスカーフ、カード類などの手品に使われる小物たちが行儀よく並んでいた。
「随分早いね? 暑かったでしょ?」
 翔陽が沙良浬に気が付いて大きな声で尋ねてきた。
 真っ黒なシングルスーツに、赤い蝶ネクタイ。ポケットには真っ白なチーフが挿してある。どちらかというと華奢な身体つきの翔陽が、ますます華奢に見えた。
「まさに真夏、って感じ。喉も渇いたし、汗でべたべた」
 沙良浬も大きな声で答えながら翔陽に近づく。翔陽も苦笑していた。
「なんかごめんね? こんなに暑くなるなんて思ってなかったから。大急ぎでパラソルを引っ張り出したんだ。日が当たらないだけましかな、って思って」
「ありがとう。でも」
 沙良浬が言葉を切ったので、翔陽が不思議そうに沙良浬の顔を覗き込んだ。
「なに?」
「……翔陽が暑いんじゃない?」
 すると翔陽は、いつものようににっこり笑った。
「僕はいつも舞台で照明を浴びてるから、大丈夫だよ。……確かに暑いけど、ね。どうしても駄目そうだったら言うから。心配しないで」
 そして沙良浬に椅子を勧めた。
「どうぞ。今、冷たいものを持ってくるね」
 頷き返した沙良浬に、翔陽は停まっているトラックに向かう。ふと何かを思い出したように振り返ると、静かに言った。
「そのワンピース、とってもよく似合ってるよ。約束守ってくれてありがとう」
 沙良浬はその言葉に、急に頬が熱くなった。それをごまかすようにずっと握っていたハンカチで額や首を拭いた。やがて翔陽は、鮮やかなブルーの液体の入った、背の高いグラスを持って戻ってきた。淵にカットされたレモンが添えられ、丸い氷が浮かんでいる。底には真っ赤なさくらんぼが沈んでいた。レモン色とブルーがいかにも爽やかだ。
「ありがとう。これなあに?」
 翔陽は悪戯っぽく笑って、沙良浬にストローを差し出しながら答えた。
「飲めば解るよ。ちょっと変わってて面白かったから、ついこれにしちゃった」
 沙良浬はそれを一口飲んでびっくりした。色は鮮やかなブルーなのに、味はまるっきりレモンスカッシュ。沙良浬はなんだかおかしくて笑った。
「これも手品のうちのひとつ? 翔陽って人をびっくりさせるのが上手」
「そうかな? ――目に見えるものをそっくりそのまま信じる沙良浬が、素直なだけなんじゃない?」
 ほんの一瞬だけ、翔陽が寂しそうに笑ったことに、沙良浬は気が付かなかった。
「よかったらお代わりもあるからね」
「うん。ありがと」
 沙良浬は黙って青いレモンスカッシュを飲んでいたが、急に思い立ったようにハンドバックを探り出した。その手には小さな紙切れ。
「はい。これを渡さなくちゃいけないのよね?」
 翔陽はそれを受け取った。翔陽が沙良浬に渡したチケットが、翔陽の手に返ってきたのだった。
「はい、確かに」
 翔陽はそれを丁寧に切って、切れ端を沙良浬に返した。
「再入場の時は、ちゃんとそれを見せてね」
「やあね。全部終わるまでどこにも行かない」
 沙良浬は半券をハンドバッグにしまいながら、わざと怒ったような口調で言った。皺が寄らないように、バッグの内袋に丁寧にしまう。
「それじゃ……少し早いけど、始めましょうか」
 翔陽は言うと、沙良浬の目の前にすっと立った。天頂から僅かに傾いた太陽の下で、翔陽がゆっくりと優雅に腰を折った。
「……ようこそ、葛城翔陽手品ショウへ。本日はどうぞ最後まで、お楽しみください」
 たった一人の観客のためのショウが、静かに幕を開ける。ステージも幕も音楽も効果音も、ライトアップする照明もない、青空の下の手品ショウ。
 しかしそれは沙良浬にとっては特別なショウの幕開けだった。
 沙良浬は目の前にいる一人の手品師に、まっすぐに視線を向けた。


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