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 男がゆっくりと手を差し伸べる。
 何が本番なの? そう問われて、男は悪戯っぽく笑って、ウインクを送る。
「それは、見てのお楽しみ。――さ、ここに来て」
 地面に積もった白は、男が踏みしだいたために乱れて汚れてしまったかと思われたが、全く穢れのないまま、最初に見た白、そのままの白でそこに積もっていた。
「僕の手をよく見て。種も仕掛けもないでしょ?」
 男が両掌を差し出した。なんならボディチェックもする? 男はいかにも楽しげな様子で笑う。
「さぁ。空を――」
 男はそう言いながら、自らも空を振り仰いだ。
 ふわり、と何かが宙を舞う。
 男が指をぱちん、と鳴らした。それを合図にしたように、ふわり、ふわり、ふわり……何かが空から舞い落ちる。
 真っ青に澄み渡り、雲ひとつなく晴れ渡る空から。
「これが今日のショウの、最大で最後の手品だよ――」
 男は神妙な顔つきで言った……。

*   *   *

 梅雨の間中、沙良浬(さらり)は何度も自分から空き地に向かった。週末はショウに関わる準備や何やらで忙しいらしいので遠慮したが、大抵平日の午後から夕方までの間にテントに入って、翔陽(しょうよう)の手品のたった一人の観客になった。
 翔陽の話によると、翔陽の手品歴は十数年になるそうだ。実際に祖父について全国を巡業するようになったのは中学を卒業してからのことで、今年で四年目になるという。沙良浬は何度も訪れているのに、座長である翔陽の祖父と顔を合わせたことは一度もなかった。ショウをするテントの奥にある、もうひとつの小さなテントで練習ばかりしているという。
「お祖父さんに会ってみたかったら、ショウを見においでよ。お祖父さんは人付き合いがあまり得意じゃないらしくてね、普段は僕と練習するか、一人で練習するかのどちらか」
 翔陽は静かな微笑を浮かべながら、淡々と喋る。
 それから翔陽は、平日の昼間から訪れる沙良浬に、一度も詳しい事情を聞こうとしなかった。どう見ても学校に通っているぐらいの年齢に見える沙良浬に、翔陽は一度たりとも「学校は?」などと問いかけなかった。それが沙良浬には、翔陽の傍が居心地のいい理由のひとつでもあった。察してくれているんだろう、ということは沙良浬にも解っていた。
「七月の最後の週と八月の最初の週は、月・水もショウをするんだよ」
 ステージの台に載せられた箱から、白兎をつかみ出して沙良浬に見せてから、翔陽は言った。今の手品の解説をするような口調だった。
「へぇ? 週末だけじゃなかったの?」
「うん。夏休みに入るでしょ、世間が。だからそれにあわせた特別日程」
「へぇ」
「それで、この巡業もおしまい」
 翔陽は万国旗をずるずると引っ張り出していた。
 ――おしまい? 沙良浬は今聞いた言葉が何かの間違いなのではないかと思った。まだずるずると出続ける万国旗をぼんやり眺めながら、やっと尋ねた。
「……なんで八月の最初の週でおしまい、なの?」
 次に翔陽は箱から真っ赤なバラの花束を出してみせてから、こう言った。
「この空き地の地主さんとの約束なんだって。九月には新しいマンションの工事を始めたいんだって。あんまりぎりぎりまでいられると困るから、お盆前には他所に行ってくれって」
「だったらお盆前までショウをすればいいじゃない?」
「そうは行かないよ。このテント、解体に三日はかかるんだ。それに後片付けなんかも考えると、ショウを終わらせて出発まで一週間しかないなんて、殺人的なスケジュールだよ」
 翔陽は箱から次々にいろんなものを引っ張り出した。ハンカチ、ステッキ、大きな猫、フランスパン、そしてユキを引っ張り出した。ユキは止まり木を飛び立つと沙良浬の肩までやって来て、一声鳴いた。
「ユキ。あんなところから出てくることもあるのね?」
 沙良浬が話しかけると、ユキは、そうそう、大変なんです、とでも言いたげな様子で羽を動かし、喉を鳴らした。
「こら、ユキ。こっちにいなくちゃダメだろう」
 翔陽が箱を手際よく解体しながら、ユキに言った。ユキは不平を並べ立てるように続けざまに喉を鳴らす。
「沙良浬だって迷惑だろう? それにちゃんと仕事しないと、二度と飛べないように羽根を切っちゃうぞ」
 翔陽に言われて、ユキは仕方なく、といった様子で止まり木に戻った。
「……ってことは、もう一ヶ月もしたら、翔陽たちはここからいなくなっちゃうの?」
 沙良浬の問いに、翔陽は少しだけ表情を曇らせた。
「まぁ――そういうことになるかな」
 それは沙良浬にも悲しいことだった。
「一度ショウを見においでよ?」
 翔陽がステージを下りてきて、沙良浬の隣に座った。何時の間にかユキも傍にいて、小さな赤い目で沙良浬を見上げていた。
「うん、でも……」
 沙良浬は言葉を濁した。夕方からのショウを見てみたい、そういう思いもないわけではない。ショウになればきっと、翔陽は観客に向かって手品をするのだろう。確かに今だって翔陽は沙良浬のために手品をしているのではなくて、あくまで練習を見てもらっている、という感覚に過ぎないのだろうが、沙良浬には違った。沙良浬のためのショウだと思っていたし、何より直接翔陽と接することができる時間が好きだった。
「……無理においで、なんて言わないけど」
 翔陽はいつものように優しく笑って、沙良浬を見た。
「でもね……ショウの時の僕って、普段よりもきっとカッコいいと思うんだよね。そんなカッコイイ僕を、見てみたいなーなんて思ったりしない?」
 沙良浬はその台詞に吹き出してしまった。なんだか翔陽には似合わない言い方だった。
「失礼な。笑わなくったっていいじゃないか」
 翔陽は拗ねた口調で言った。沙良浬は笑いが止まらなくなって、しばらくくすくすと笑っていたが、そのうちに笑い止んでかえって神妙な面持ちで言った。
「……でも寂しくなるな。翔陽がいなくなっちゃうなんて」
「――仕方ないよ。巡業ってそういうことだし」
 沙良浬は頷き返した。ふたりともしばらく黙っていたが、急に翔陽が口を開いた。
「沙良浬、何かして欲しいこととか、ない?」
「どうして?」
「沙良浬にはいろいろお世話になったから、お礼をしたいと思って。僕の『古典的な』手品の観客になってもらえて、感謝してるんだ。今はああいう地味な手品って流行らないけれど、派手な仕掛けや広いステージがなくてもできるから、僕はやっぱりああいう手品を大事にしていきたいと思ってて。
 そういう意味では、沙良浬に見てもらって意見を聞いたことも参考になったから。
 だから、お礼がしたいんだけど」
 沙良浬はしばらくじっと考え込んでいたが、記憶をたどりながらゆっくりと話し始めた。
「――小さい時にね……まだ五歳くらいかな? 遠い親戚の家に家族で遊びに行ったの。両親はスキーが目的で、わたしと小さな弟は、親戚の家の庭で雪遊びをしたの。空から、こうやってちらちら降る雪は、何だか不思議な生き物みたいに見えた。親戚のお兄ちゃんやお姉ちゃんと、かまくらの中から降る雪をぼうっと眺めてた。
 今でもすごく覚えているのは、ただ、雪が降っていたことだけ。
 それがね、不思議なの。晴れててね、空はうすーい青なのに、ふわふわの雪が風に乗って降ってるの。晴れてるのに雪が降るなんて、おかしいじゃない?
 だからそれはきっと、わたしの記憶違いだと思うけど。でもね、綺麗で不思議だった」
 翔陽は口を挟むことなく、静かに沙良浬の話を聞いていた。
「……いつかもう一度見られたらな、って思う。でもね、実はよく覚えてないんだ、その親戚の家がある場所とか。あれからずっと行ってないから。もう引っ越しちゃったかも」
「……で、何をして欲しいの?」
「だから。できるなら晴れてるのに降る雪を見てみたいな、って思って。いくら翔陽が手品師だからって、そんなの無理だよね」
 沙良浬は笑った。翔陽は腕を組んでうーん、と唸ってから、こう言った。
「――出来ないこともない、けどね?」
「ほんとに?」
 瞳を輝かせて問い返す沙良浬に、翔陽は言った。
「……やりましょう。沙良浬のために」
「嬉しい!」
 沙良浬は今にも踊り出しそうだった。翔陽は沙良浬にこう言った。
「それじゃあ――ここを出発する前にでも、沙良浬のためだけにショウをやろうか。それでいい?」
「うん」
「じゃ、これをあげる」
 翔陽がぱち、と指を鳴らすと、いつの間に用意していたのか、一枚のチケットが翔陽の手の上に現れた。
「チケット?」
 沙良浬はそれを受け取って、じっとそれを見た。チケットには『葛城翔陽 手品ショウ』という文字が書かれているだけだ。
「うん。沙良浬のためのショウなんだから、お客様らしくお洒落してきてね。僕もちゃんと正装するから」
 沙良浬はその言葉に、自分のクローゼットの中身を思い浮かべていた。お洒落できるような服はなかったが、何とか両親に頼み込んで買ってもらおう、そう思った。
「……努力してみる」
 答える沙良浬に、翔陽が微笑んだ。
「約束だよ」
「うん」



 沙良浬は家に帰って、改めてクローゼットの中身を調べた。やはりお洒落を出来るような服は一着も見当たらない。あったとしても、今の沙良浬にはとても着られないサイズだった。
 その日の夕食後、洗い物をしている母親の隣に立って、沙良浬はやっとの思いで母親にこう切り出した。
「お母さん、……お願いがあるんだけど」
 母親は手を動かしながら、なあに? と問い返す。
「あのね、新しい服が欲しいの」
「服?」
 そこで母親は改めて沙良浬に顔を向けた。
「駄目?」
 母親はしばらく手を止めたまま、ぼうっとしていた。その様子は沙良浬の目には渋っているように映って、縋るような表情で母親を見ていた。母親は沙良浬の様子に気がついて、慌てて洗い物を再開しながら、何でもないことのように言った。
「そうね。しばらく何も買ってあげていなかったし、いいわよ」
「本当?」
「うそ言ったって仕方ないじゃないの」
 母親の素っ気ない言い方にも気付かずに、沙良浬は礼を言った。
「ありがとう、お母さん」
「ヘンな子ね、そんなことで。明後日お母さん休みだから、一緒に買いに行こうか?」
 キッチンを後にする沙良浬の背中に向かって、母親が言った。
「うん」
 沙良浬は元気よく答えて、部屋に戻った。
 キッチンに残った母親は、自然に口許をほころばせた。三年もの間、何もせずにじっと部屋に閉じこもりきりだった娘。その娘が「新しい服が欲しい」と言う日が来るなど考えもしていなかった母親にとっては、嬉しい出来事だった。今時の若い娘らしい、可愛らしい服を見繕って買ってあげよう、そんなことを考えながら、母親は手を動かしていた。



 沙良浬と母親は、買い物の合間にカフェに立ち寄った。
 二人とも両手にいくつもの買い物袋を下げて、ほんの少し疲れたような表情をしていた。
「こんなにたくさん、よかったの?」
 アイスカフェオレを飲みながら、沙良浬は今日一日で何度も繰り返した質問を、また口にした。
「いいのよ。でもこれからは、こんなに奮発できないわよ」
 母親は嬉しそうに笑いながら答えた。今日の母親はずっと笑顔だった。
「女の子なんだもの、お洒落しなくちゃ損よ。お母さん、嬉しいのよ」
 これも、今日何度も聞かされた台詞だった。
「こんなふうに一緒に買い物に来たのだって、もうしばらくぶりだし、何だか楽しくなっちゃって」
 アイスミルクティーを飲みながら、母親が笑う。
「……ごめんね」
 母親の突然の言葉に、沙良浬は驚いて母親をじっと見つめ返した。
「あんたは……沙良浬はずっといい子だったから、母親らしいこと何にもしてあげてなかったわね。本当にいい子で――」
 母親は言葉を詰まらせた。
「やだお母さん、どうしちゃったの?」
「――嬉しくて。沙良浬とこんなふうに買い物したり、お茶する日が来るなんて、ちょっと想像してなかったから。お母さん安心した……」
 母親が俯いて涙を拭った。
「あたしこそ……ごめんね」
「いいのよ。いいの。――これからも、たまにはこうして買い物しようね?」
 涙声で言う母親に、沙良浬は黙って頷いて見せた。
 そして、初めて思う。
 ――ああ、今まであたし、なんて親不孝なことしてきたんだろ……。
 沙良浬の目にも涙が浮かぶ。沙良浬はそれをわざと欠伸をして誤魔化した。なんだか照れくさい。
「……さ、あとは何が欲しい?」
「えーっ。もういいよぉ」
「そう? せっかく夏なんだから、ミュールとか買わない?」
「ミュール?」
 沙良浬が問い返す。母親は少女の瞳で沙良浬を見ながら言った。
「だって沙良浬、あんたぐらいの娘はみんな履いてるじゃないの。若いうちしか似合わないわよ、あんなお洒落なの」
 羨ましいわ、何でも似合う年頃なんだもの――母親が言い添える。
「せっかく可愛いキャミソールのワンピース買ったんだから、あれに合いそうなの、見て行きましょ」
「……お母さんがそう言うなら」
「そうよ。子供は黙って親の言うこと聞いてればいいの」
「はいはい。どこでもお供するわ」
 沙良浬のための買い物のはずが、なんだか母親のための買い物になってしまったようだ。それでも沙良浬は、今日は母親の気が済むまで付き合おうと決めた。母親が楽しそうに笑っているのも、なんだか嬉しかった。
「ねぇお母さん」
 カフェを出たところで、沙良浬が声をかける。
「何?」
 先に歩いていた母親が僅かに振り返る。
「……ううん、何でもない。それ持つわ」
 沙良浬は半ば強引に母親の手から紙袋をもぎ取った。
「重いでしょ。お母さんが持つわよ」
「いいの! あたしの服なんだから」
「そう?」
「そうよ」
 強く言い切って、沙良浬は母親に笑って見せた。


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