見えない鎖

 学校から帰ってくると、嬉しそうな顔をリビングから覗かせて、ママがあたしを呼んだ。あたしは部屋に向かいかけた足をリビングに向けなおして、ママのところまで行く。

「何?」

 あたしはちょっと面倒だったけど、ママに尋ねてみる。ママはにっこりしたかと思うと、あたしの鼻先に手を突き出した。

「じゃーん!」

 正確には、あるものを握り締めた手を、と言うべきだろうか。ママの手の中には、桜色をした、小さな携帯電話が握られていた。

「どう? これ、みーやのよ」

 甘ったるいような耳にこびりつくような……どこかあたしに媚びるような声で、ママが言う。あたしはちょっとウンザリして、ママに言った。

「要らないって、携帯なんて。めんどくさい」

「あら? みんなも持ってるでしょ?」

 ママは意外そうな表情で、そう問い返す。確かにみんな持ってる。持ってない方が少ないくらいだ。だけどあたしは、「携帯電話」なんて一度も欲しいと思ったことがない。だって、きっと使わないから。もともとデンワで喋るのはあまり好きじゃないし、急ぎの連絡なんてほとんどない。みんなもあたしが持ってないことをそんなに気にしてないし、あたしも気にしてない。

「だって、何かあったら困るでしょ?」

 ママがあたしに確かめるように言う。あたしは逆に問い返す。

「何か、って何? 今まで、そんなことなかったじゃない。学校に行ってる日なら学校にデンワすればいいし、塾とかの時だってそうでしょ? 行き帰りの二十分や三十分、急いだってしょうがないじゃない」

 それに、どっちにしても電車の中じゃ使えないんだし。

 あたしの言葉に、ママはうっすらと笑顔を浮かべた。

「……でも、メールがあるでしょ?」

 ママはあたしに、どうしても携帯を持たせたいみたいだ。自分がパパやお姉ちゃん、それに友達との連絡に使ってるからって、それをあたしにまで押し付けるのは勘弁して欲しかった。

「……メールなんてしないもん」

 それ以上ママに付き合っていられなかった。あたしはくるりとリビングに背を向けて、自分の部屋に駆け込んだ。

「みーや? みーやったら。いいじゃないの、通話料も全部ママが払うんだし。持ってて損することなんてないと思うわ。だから、ね?」

 ママは部屋のドアの前まで追っかけてきたみたい。あたしは無視することに決めて、塾の宿題を始めた。ママの甘ったるい声は、聞いているといらいらしてくる。そのうちにお姉ちゃんが帰ってきたみたいで、なんだかママと喋ってるのが聞こえてきた。お姉ちゃんは呆れたようにママに言っていた。

「みーやの好きにさせておけばいいじゃない。そのうち欲しがるわよ」

 言ってるそばから、お姉ちゃんの携帯の着メロがぴろぴろなる。その音も、あたしには耳障りに思えて仕方がない。お姉ちゃんはお母さんとの話を切り上げて、デンワに出たみたいだ。お母さんも黙っている。きっとパパにメールでも送ってるんだ。あたしはため息をついて宿題に向かう。そのうちに静かになった。

 宿題も一段楽して、あたしは部屋を出た。キッチンの方から、ママのひそひそ声が聞こえる。盗み聞きしようと思った訳じゃないんだけど、自然とそんな風になってしまった。話し相手は解らない。ずいぶん親しい人みたいだ。

「……全然解らないのよ。年頃の女の子なのに。――そうよ? ええ。普通なら携帯くらい持ちたいじゃない? あの子、普通じゃないのかしら?」

 携帯を欲しがらないだけで、普通じゃないとか言われるのは心外だった。なんでそんなこと言われなくちゃならないの? ママの思う普通って、どんな子のこと言うんだろ。

「そうなの。――そう。ドラマもあんまり見ないし、友達同士でショッピングに行ったりもしないし。――え? ううん、そういうわけじゃないみたいだけど」

 ママは携帯に向かって、ひたすら喋る。ママの話し相手は、本当はあのちっちゃな機械なんじゃないかって気がしてきた。

「あたしがあの子ぐらいの頃は、もっといろいろやりたかったけど。……ええ。そうよね? 志保はあたしと考え方も似てるし、解りやすいって言えばそうだけど、美也のことはサッパリよ。あの子、何を考えてるのか全然解らないのよ」

 解られてたまるか。あたしは思った。あたしはママの子どもだけど、ママの分身だったり人形だったりするわけじゃない。

「まぁ――そうよね。ええ、ええ。――そうね。ありがとう。少し楽になったわ。ええ。じゃ、またね」

 ママはやっと電話を切った。あたしはタイミングを計って、今ちょうどここに来たばっかりみたいにして、リビングのソファに座った。

「みーや。ほんとに要らないの? 携帯」

「うん」

 あたしは新聞のテレビ欄に視線を落としながら答えた。リモコンでニュースに合わせる。

「でも、ちょっとくらいは使ってみたいな、とか思わない?」

「ぜーんぜん」

 あたしはさらっと言ってやった。ママはおろおろして、泣きそうな表情であたしを見た。

「美也。ママのことが嫌い?」

 突然そんなことを聞かれて、あたしはママをまじまじと見つめてしまった。そんなこと言ってないじゃない。自己主張してるって思ってくれないかしら? あたしくらいの年頃の子供には、よくあることでしょう?

「美也。ママね、あなたと電話とかメールとかやりたいのよ。パパともお姉ちゃんともやってるし、美也ともそうやっていろいろお喋りしたいの。解る?」

「――」

「だから、試しに持ってみない?」

 あたしはわざとらしく肩をすくめて見せた。ママ、自分で何言ってるか解ってるの?

「ね? みーや」

 ママは相変わらず甘ったるい声を出した。あたしが何も答えないことを、どう受け取ったんだろう。テーブルの上に置きっぱなしだった携帯を手にとって、あたしに色々説明を始めた。あたしはママの手元に視線を漂わせたけれど、説明は全然頭に入っていなかった。ママは携帯を片手に、生き生きと喋っている。あたしはそんなママが、かわいそうに思えてきた。

 家族なのに。同じ家に住んでるのに。わざわざ携帯で電話してメールして、お喋りしたいってどういうことなんだろう? 携帯を通せば、あたしと向き合えると思ってるの? 今もそうだよね。携帯の説明をする、ってことで――携帯を間において、あたしと喋ってるんだよね? ママ、それでほんとに満足なの? パパとお姉ちゃんとも、それでうまくやってるって思ってるの?

 ママは、その桜色の携帯からママの携帯を鳴らした。

「みーや、好きな歌手はいないの? 着メロでみーやって解るように、登録しておくわ。ね? 何がいい?」

 あたしがそっと覗き見たママの携帯のディスプレイには、既に『みーや』って登録してある。お姉ちゃんは『志保ちゃん』で、『パパ』ももちろん『パパ』で登録してあるんだろう。

 あたしは何も答えなかった。ただ、皮肉っぽく口許を引きつらせると、ママの掌から桜色の機械を奪い取った。ママの言う通りにしてあげる。携帯でもなんでも持つわ。使うつもりはないけど。あたしはソファを立って、ママに背中を向けて言った。

「持つわ。コレくらい。それでいいんでしょ」

 ママは、ありがと、みーや、って声を詰まらせた。何がどうしてそんなに嬉しいのか、あたしにはサッパリ解らない。あたしは部屋に戻ると、マナーモードにしてしまった。しかもバイブじゃなくてサイレント。これで着信も解らない。もちろん、友達にも誰にも携帯を持ってるって教えない。学校に持っていったり、持ち歩いたりなんかしない。あたしは自分の生活を変える気なんて、ない。こんなちっぽけな機械なんかに、変えられてたまるもんですか。

 それからママは、ちょくちょくあたしの携帯に電話やメールをしてくるみたい。だけどあたしはそれに応えたことはない。ママはちょっと悲しそうに、「たまには返事ちょうだいよ」って言うけれど。

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