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+++ 3 +++

 白いものと戯れていた男は、踊りながら歌うように話し始めた。
「物心ついた時からね、お祖父さんを見ていたよ」
 ちょっとした昔話だよ――男はちょっと笑って。やはり澄み切った真直ぐな笑顔だった。
「初めて見た時は、ものすごくどきどきしたよ。何もないハズなのに、次々にいろんなものが出てくるんだからね。僕のお祖父さんは、本物の魔法使いだ、ずうっとそう思っていたよ」
 今はどうなの? そう問われて、男はやはり踊りながら、楽しげに言い切った。
「もちろん今でもそう思っているよ。僕のお祖父さんは魔法使いだ、ってね」
 踊りながら、左手をそっと差し出す。指先が微かに空に向かった。そしてそこからまた、白いものが舞い上がる。
「……」
 微かな言葉は、男の周りで白いものに吸い込まれるようにかき消されて、遠くまでは届かない。口許には穏やかな微笑。
「さぁ。ここからが本番だよ」
 気を引き締めるようにしっかりとした口調で男が言った。男の足許には、降り積もる白。
 隙間なく積もったその白は、何よりも純潔な白だった。

*   *   *

 太陽の光が強すぎて、沙良浬(さらり)は眩暈を覚えた。
 よく晴れた春の昼下がり。沙良浬は降りかかる太陽の光が、こんなにも力強いものだったことに、改めて驚いていた。微かに頭を振って空を見回すと、白い影が輝いて見えた。鳩は沙良浬を待つように旋回を続けていたが、すぐにどこかに向かって飛び始めた。沙良浬はそれを追いかける。
 見失いそうになるたびに、鳩は旋回して沙良浬がついて来るのを確かめてから飛んでゆくようだった。沙良浬はふらつく足を懸命に動かして、鳩を追った。
 しばらくぶりに見る近所の風景は、何も変わっていないようで僅かにその姿を変えていた。沙良浬が学校に行っていた頃よりも建売の住宅が増えたようだ。家と家の間の道路も、もっとゆったりとした幅を持っていたように思ったけれど、今は息苦しいほど狭い。道路のあちこちの路駐が目に付く。それらは沙良浬には馴染みのない風景だった。沙良浬は三年という過ぎ去った時間を、改めて知った気がした。
 しばらくして、鳩は沙良浬の視線の先で、空き地に建てられた大きなテントの脇に吸い込まれるように滑り降りた。
「……こんなところに空き地なんてあったっけ?」
 沙良浬は遠い記憶を呼び起こすように目を細めて考えた。確かここは児童公園だったはず。しかしあったはずの遊具などはきれいさっぱり取り払われ、砂利の上には大きなテントが建っていた。空き地の片隅に小さな砂場があったが、それも注意して見なければ解らないほどだった。沙良浬は緊張した足取りでテントに向かって歩き始めた。テントの入り口から中を覗きこんで、それが何かの巡業のテントであることが解った。それからテントの裾に沿って、空き地の奥へと回り込む。ぱん! と大きな音がしたのに驚いて、沙良浬は尻餅をついてしまった。
「……誰?」
 張りのある声が沙良浬に飛んできた。沙良浬は瞳をぱちくりさせて、声の主を見た。
 視線の先には、沙良浬より少し年上であろうと思われる男が立っていた。ベージュの薄手のニットに、真っ黒なストレートのパンツ。身体つきは華奢な感じだった。髪は明るい茶色で、ところどころ一段明るい茶――金という方が近い色で、メッシュが入っている。首からは派手な銀のチョーカーを下げて、両手の指にごてごてと大きな指環がいくつも並んでいた。まさに今時の若者、という感じだった。しかし沙良浬は、実際にこの男のような外見の人と接したことがなかったために、少し恐ろしいような気がしてしまった。
「あ……」
 沙良浬は恐ろしさと緊張のために声を失った。男はゆっくりと沙良浬に近付いてきて――滑らかな優美な動作で沙良浬に手を差し伸べた。
「大丈夫?」
 男は優しい目をしていた。沙良浬はただ頷きを返して、男の手を借りて立ち上がった。
沙良浬は男に礼を言って、フレアスカートを軽く払った。まだ少し足許がふらついている。それでも何とか真直ぐに立つことが出来た。
「大丈夫?」
 男は同じ問いを繰り返した。沙良浬はまた頷いただけで、声を出すことが出来なかった。
「ここって一応、部外者お断りなんだけど」
 静かに言われて、沙良浬はあっと声を上げた。
「……ごめんなさい、知らなかった」
「まぁ、いいや。ところで、何か用なのかな?」
 男にそう問われて、沙良浬は慌てて辺りを見回した。
「あの……鳩が飛んできませんでした?」
「鳩?」
「ええ。真っ白な鳩。あたし、鳩を追いかけて来たんですけど」
「――あいつかな」
 男はそう言うと、ぴゅっと鋭く口笛を吹いた。ばさばさ、と羽音がして、あの鳩が飛んできた。男が慣れた動作で左腕を差し出すと、鳩も慣れた様子でそこに止まった。
「困ってるんだよ、ユキには」
「ゆき?」
「コイツの名前。コイツ、放浪癖があるんだよ」
 苦笑交じりに言って、男は鳩の首筋を軽く撫でた。鳩――ユキは、気持ちよさそうに目を細める。
「……放浪癖、って?」
 沙良浬がユキを見ながら尋ねる。男は腕を振ってユキを宙に旅立たせてから、落ち着いた口調で語り出した。
「僕たちは日本中を巡業している手品師なんだ。いろんなところでこうしてテントを張って、ショウをしている。もちろんユキや他の鳩は手品に使うために飼っているんだけど、何故かユキだけは、巣箱を抜け出してどっかに行っちゃうんだよね。……ちゃんと帰ってくるからいいものの、いなくなる度に心配だよ。ユキに限ってそんなことはないだろう、とは思っていても、どこかで野良猫の餌食になっちゃったんじゃないか、とか、ガキに掴まって悪戯されてるんじゃないか、とかね」
「へぇ」
「この間も、三日も帰ってこなかったし。どこで何をしてたのやら」
 男は溜息をつく。
「――ウチにいたわ」
「……えっ?」
「だから――ユキはウチにいたの。三日間。とってもいい子だったよ」
 沙良浬が言うと、男はにっこりと笑った。
「そうか。じゃ、君にはお世話になったんだね。特にやつれたふうでもなかったから、きっと餌をもらってたんだな、とは思ったけど、それも君が?」
 沙良浬はこくりと頷いた。
「そっか。……ありがとう。助かったよ。迷惑じゃなかった?」
「ううん。ちっとも」
 沙良浬は大げさに両手を振って見せた。沙良浬がこんなふうに外に出るきっかけを作ってくれたのも、ユキだ。だから感謝こそすれ、迷惑だなんて考えてもみなかった。
「ユキがお世話になったんじゃ、もう部外者じゃないね。僕は翔陽(しょうよう)。葛城(かつらぎ)翔陽って言うんだ。この巡業手品で、一応手品師をやってます。君は?」
 翔陽は右手を差し出した。
「あたし? あたしは、橘(たちばな)沙良浬」
 沙良浬も右手を差し出して、しっかりと握手を交わした。翔陽の手は、見た目ほど華奢ではなかった。
「じゃ、ハジメマシテのご挨拶に」
 翔陽は優雅に礼をして、軽く右手を動かした。その一瞬後には、翔陽の手の中に一輪の黄色いバラがあった。
「どうぞ」
「……ありがと」
 沙良浬はそれをそっと受け取った。刺は全部切ってあるらしく、茎は滑らかだった。
「せっかくお近づきになれたのに、とっても申し訳ないんだけど、そろそろお祖父さんと練習する時間なんだ。練習の時は完全に部外者お断り、なんだ。だから本当に悪いんだけど――帰ってもらえない、かな?」
 見られると困ることもあるし――翔陽はそう言ってすまなそうに頭を下げた。沙良浬は首を振った。
「こちらこそ、ごめんなさい。イキナリ来て、迷惑だったよね?」
「ちっとも。よかったらまたおいで?」
 翔陽の誘いに、沙良浬は曖昧に頷き返した。
「うん。それから、バラ、ありがと」
「どういたしまして」
 沙良浬は翔陽に別れを告げると、空き地を出た。自宅までの道のりを僅かにふらつく足取りでゆっくりと辿る。ほんの数分の出来事だったけれど、沙良浬はとても貴重な時間を過ごした気がした。それは沙良浬自身が驚く経験だった。もう三年も他人との関わりを絶って生きてきたのに、翔陽と普通に接して言葉を交わせたことが、沙良浬には今でも信じられなかった。もしかすると、ユキという鳩を介してのことだったから、警戒心も薄かったのかもしれない。たった今までのユキや翔陽とのやりとりが、ずっと昔に忘れて置き去りにしてきた宝物のように思えて、沙良浬は寂しかった。それと同時に、他の誰かと関わりを持てたことが嬉しくもあった。いろんな思いを抱えながら、沙良浬はゆっくりゆっくり時間をかけて、歩く。
 部屋に帰って、沙良浬は真っ先に分厚い遮光カーテンを外した。後には、薄手のペパーミントグリーンのカーテンが残る。その緑は沙良浬の目に新鮮な色に映った。
 ――何かが変わる?
 沙良浬はふと、自分に向けてそんな問いを発してみた。
 よく解らない、自信も確信もない。だけど。
 ――きっと何かが変わる。
 沙良浬は強く思った。



 そろそろ梅雨を迎えようとしていた。
 沙良浬は毎朝五時四十八分に目覚めるという、呪縛のような習慣からは抜け出せずにいたものの、以前のような憂鬱や、眠る前の祈りからは開放されつつあった。何より目が醒めれば、薄手のカーテン越しに朝の爽やかさが沙良浬を包んで、それだけで沙良浬は自分がまるで違う人間になってしまったように感じていた。
 家族ともごくたまにだが顔を合わせるようになっていた。両親は沙良浬の変化に戸惑いながらも、何とか平静を保っているように見えた。部屋に篭りきりだった沙良浬がこうして姿を見せるようになって、アルバイトのひとつでもするようにと言いたかったかもしれない。しかし決してそんなことを口にしなかった。
 沙良浬自身が一番変わったと思うところ、それはやはり部屋だけではなく、家からも出るようになったことだろう。実際に沙良浬は、これまでに三度、あの空き地を訪れていた。今のところは空き地以外の場所には行っていないが、それでもゆっくり歩きながら、帰り道には少し遠回りしてみたり、外の世界と触れ合う時間が徐々に長くなっていく。
 そして今日――四度目にして初めて、沙良浬は自ら思い立ってテントに向かっていた。これまでは、前触れもなくふらりとユキがベランダまでやってきては沙良浬を呼んだ。それで沙良浬は出かけていたのだ。
 今日テントを訪ねようと思ったのは、先週末の折り込みチラシで、テントでの手品ショウが始まったことを知ったからだ。そのチラシによると、ショウは金・土・日曜の夕方五時開演で、入場料は大人五百円、中学生までが三百円、五歳までが二百円、それ以下は無料ということだった。沙良浬にはそれが随分安いような気もしたけれど、実際のところはよく解らない。ショウが始まって最初の週末が終わって、ショウがどんな様子だったかも知りたかった。
「……こんにちは」
 空き地に入ってテントを回りこみ、奥に向かって沙良浬は遠慮がちに声をかけた。これまではユキが一緒だったから入りやすかったが、今日は勝手が違ったので緊張してしまい、声もうまく出なかった。
「お邪魔、します……」
 沙良浬はもごもごと呟きながら、そろりそろりと奥まで行く。誰もいない。
「いらっしゃい」
 優しい艶のある声がして、沙良浬は慌てて振り返った。翔陽がにこにこしながら、テントの脇に立って沙良浬を見ていた。
「あの……さっき、そこにいなかったよね?」
「そう? 僕は手品師だからね。湧いてでたのかもよ?」
 翔陽は楽しげに言いながら、沙良浬に手を差し出した。ぽん、と小さな花が目の前に現れる。
「どうぞ」
「ありがとう」
 沙良浬はそれを素直に受け取った。今度は紙で出来た作り物の花だった。
「……小学校の工作で作る花みたいね?」
 沙良浬の感想に、翔陽は少し頬を膨らませた。
「でも、遠目で見るとなかなか綺麗なんだよ。こっちにおいでよ」
 翔陽は沙良浬をテントの中に招き入れた。外で見るよりも広い。ステージが一段高くなっているが、高さはせいぜい十五センチ、客席とも一メートルほどしか離れていなかった。翔陽は一番前の客席に沙良浬を座らせた。
「ショウはどうだった?」
「おかげさまで。三日とも満員御礼が出るくらいだったよ」
「そう」
「沙良浬、ヒマ?」
 翔陽の突然の問いに、きょろきょろと場内を見回していた沙良浬は翔陽を見た。
「よかったら、僕の練習に付き合ってくれない?」
「……いいけど」
 翔陽は嬉しそうににっこりして、沙良浬に言った。
「誰かの目の前で練習するのが、一番上達が早いんだ。助かる」
「でも、お祖父さんと練習してるんでしょう?」
 沙良浬の問いに、翔陽はまた笑う。
「うん。でも、お祖父さんはお祖父さんでいろいろ忙しいからね。僕は僕で頑張らないと」
「あたしでよければ、付き合う」
「ほんと? じゃあ、そこで見てて」
 翔陽が嬉しそうに言って、ステージに立って優美に頭を下げた。沙良浬は翔陽を見つめた。


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