ぜんぶながして。

 カーテンの隙間から陽射しが零れている。蜜季(みつき)は何気なく目覚し時計に視線を投げて、それからほうっと時間をかけて深呼吸した。七時三分。まだ、こんなに早い。
 昨夜は――正確には、今朝、かもしれない――遅かったから、絶対にいつもの時間に起きられるはずはない、と思っていた。でも、それでいいと思った。だから、目覚ましのセットもせずに、ベッドに潜り込んだのに。
 朝って、ちゃんと間違いなく、狂いなくやってくるんだぁ――。
 まだ寝ぼけた頭でそんなことを考えてから、蜜季は薄く笑った。皮肉な笑み。
「あたし、まだこんな風にちゃんと、起きられるんだぁ」
 自分の投げた言葉がおかしくて、また笑えた。
 しばらく何もしたくなくて、ベッドの中でもぞもぞしていた。例えばこれが――九時三分だったり十時三分だったりしたら、そのまま適当な嘘で誤魔化して、お茶汲みもコピーも会議の資料作りも、くだらないおしゃべりもつまらない昼休みも、全部ぜーんぶ放り出せちゃうのに。――あの人の送別会も、放り出せちゃうのに。
 もう一度目覚し時計を見たら、まだ七時七分と、二十秒を廻ったところだった。
 たった四分でも随分くだらないことを考えられるもんだ――呆れる一方で自分を誉めたい気分にもなる。蜜季はずりずりとベッドから抜け出して、バスルームに向かった。
 鏡の中の自分は――とても見られた顔じゃあ、なかった。
 随分老けて見えるのは、寝不足の隈のせいだけでもなく。
「いいや、今日は、うーんと、遅刻してっちゃおう」
 鏡の中の自分に向かって、蜜季は囁いた。栓を思い切り捻って、熱いシャワーが出るまで待つ。昨日までのことは、全部、ぜーんぶ、熱いシャワーに流しちゃおう。今の蜜季に出来る、それが精一杯だった。
 バスルームから出て、念入りに化粧を施しながら、蜜季はちょっとだけまずった、と思う。熱いシャワーのおかげで、表情も大分生き返った。でも、こんなに遅刻していったら、全部を認めてしまうに違いないから。あたしは負けたのかもしれない。あの人に。でもそもそも、勝ち負けなんてあるのかな? 自分にふと問いかけてみて――蜜季はまた笑っていた。
「ま、いっか」
 諦めに似た、悲しい笑顔。笑えるだけまし。蜜季は思う。
 ビューラーで丁寧に睫をカールさせてから、より丁寧にマスカラを塗る。気がついたら鼻歌を歌っていた。
「今夜の送別会では、それじゃあお元気で、って思いっきり笑ってやるわ。……それでもあたしの負けには違いないけれど、泣いて悲しんだりなんか、間違ったってしてやんないんだから」
 一番のお気に入りのルージュを塗って、鏡の前で笑ったら、少しだけ身体が軽くなった気がした。
「行って来まーす」
 玄関でいつものパンプスを履いたら、気分がぱっと切り替わった。
 よし、大丈夫。
「負けるのは悔しいけど、そういうときもあるさ」
 口に出して言ってみたら、意外とあっさり、言葉が胸に落ち着いた。そうそう、そういうときもある。
 ショルダーバッグを振り回しながら、蜜季は軽く鼻歌を歌っていた。
 日常へ向かう、道程の中で。


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