【批評】大野 弘紀さん 『詩集 余韻(加筆・修正)』

 批評させてくださいまして、ありがとうございました!

 今回の作品は、こちら。

返答詩集 余韻 (加筆・修正)|poet_ohno|note(ノート)https://note.mu/poet_ohno/m/mec052d5fd2ca

 わたしも詩を書くこともありますが、詩は小説よりもうんと難しいと思っています。言葉を研ぎ澄まさなければならないので。

 『ぶった切り』で、とのご依頼ですので、思ったことを遠慮なく全て、書かせていただきます。もしも批評から逸れてしまったらごめんなさい。ご意見ご感想、苦情反論などありましたら、どうぞ遠慮せずにお聞かせください。

 では、批評を。

 全篇を通して強烈に訴えかけてくるものがあります。

 自分とは無力でちっぽけな存在でしかない。

 一言で表すとこうだと感じました。
 その『無力でちっぽけな自分』が、生きているこの『世界』について、全力で表現しようという熱意もよく伝わってきます。手にしているものや失ってしまったもの、暖かいもの冷たいもの、光、闇、その他、諸々について語りながら。全ての詩が切なくて哀しくて苦しくて、もっと救いが欲しくなってしまいました。

 『返答詩集』とタイトルがついていますが、それぞれの詩の形式が『返答』といいますか『問答』のような形ですので、このタイトルをつけたのかなあ、と感じたのですが、それを前提にこの先を進めます。この認識に誤解があったとしたら、この批評はあまり意味のないものになってしまうと思います。ですので、わたしが誤解しているようでしたら、どうぞご一報ください。何度でも書き直させていただきます。

 本題に戻ります。

 『返答詩集』ですので、それぞれに『返答』のある詩の集まり、なのですが、それを詩集にする意味や、詩集全体に込める『想い』に考えを巡らせてみました。二十一篇の詩から成る『詩集』ですので、全体を十、一、十と分けてみました。
 前半十を、もっと深く内面に向かうもの、真ん中の一が折り返し、そして後半の十を外面に拡がっていくものと位置付けてみてはいかがでしょう。
 二十篇、二十一篇は、読み終えたあとに明るく拡がっていくような、希望が見えるような印象があります。そのような『光のようなもの』を、折り返し以降に徐々に散りばめていきます。全篇を読み終えたあとの『余韻』の印象が、きっともっと変わってくると思います。

 小説にしても詩にしても、なんの救いもない作品もあります。そもそも救いなど要らない、という意見もあります。ですがわたしは『自分が弱い人間』なので、光も希望も救いも欲しいと思います。
 自分はちっぽけでなんの力もなくて、生きていくのはしんどくて辛い。そんな世界を見せられたら、立ち上がる気力も湧きません。前半はそんなふうに、まわりを傷つけ叩きのめすくらい暗い詩でもいいかもしれません。そうすることで後半の『光』がより際立つ。それでこその『余韻』かなあと、そんなふうに考えました。
 せっかくの『詩集』なのですから、それを目一杯活用しないともったいないです。

 それから、こちらはほんとうに細かい点なのですが、わたし自身、出版者の編集の方に『"――"と"……"は、多用しても意味はない』と言われました。書き手が思うほどの効果はないのかもしれません。最小限に抑え、ここぞ、というところに限定的に遣った方がいいでしょう。また、詩に当てはまるのかは解りませんが、小説では原則二マスで『――』『……』と遣うもののようです。

 非常に個人的で偏った内容かもしれませんが、ご参考になれば幸いです。

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